自由を求める(1)
お久しぶりです。
何を話そうか迷っていたらだいぶ日が空いてしまいました。
不定期で更新するので暇だったとき見てくださったらありがたいです。
今回のテーマは「自由」です。
私の大好きな言葉です。
でも自由っていったいなんだろう。
誰しもが考えたことがあるのではないでしょうか。
私もよく分からないテーマではありますがみなさんの考えも機会があれば聞かせてください( ・×・ )
1)自由とは何か
自由(Freedom, Liberty)は、一般に
他から束縛されたり、規制を受けたりしないで自分の思うままに何かをすることができること、またはそのような状態。
を表すようです。
古代社会における自由(Freedom)とは、奴隷からの解放の意味で用いられており、自由な(free)身分(-dom)を表すもののようです。
キリスト教を源流とする教父哲学においてアウグスティヌス(Aurelius Augustinus ;354-430)は、人間の自由は「悪への自由」であるとしています。原罪を背負う人間の自由意志に基づく行為は悪であり、神の恩寵によってのみ善行が行なえ、救済されると説いた。(※対ペラギウス論争)
西洋近代においてはピコ・デラ・ミランドラ(Pico della Mirandola ;1463-94)は人間の尊厳を自由意志に求めている。神は人間に自由な選択の能力を与え、自己の生き方を自由に選ばせるようにした。人間は自由意志によって動物に堕落することも、神との合一にまで高まることもできる。人間が自由意志に基づいて自己を形成する点に人間の尊厳の根拠があるとした。(cf.ルター「意志非自由論」)
デカルト(Rene Descartes;1596-1650)によれば自由とは2種類あり、①物事を決定しないままにしておく自由(非決定の自由)と②理性と自由意志によって決定する自由(決定の自由)があるとした。彼によれば真の自由とは理性と意志によって物事を決定することである。
カント(Immanuel Kant;1724-1804)によれば、普遍的なルールである道徳法則と善意志との関係において自律的な自由を説いています。道徳法則とは
汝が意志の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ。(「実践理性批判」)
すべての人が従うべき定言的かつ普遍的法則である。人間は自らの道徳法則に良心の声に基づいて自律的に行為することが自由であるとする。
功利主義者のミル(John Stuart Mill;1806-73)の「自由論」によれば個人の自由を制限できるのは他者への加害行為だけだという他者危害原理も重要な点である。
市民革命や産業革命以降、自由と平等は市民社会の基本原理として確立した。資本主義社会における無制限な自由(レッセフェール)やそれに対するストライキを通して社会的自由は基本的な人権の保障という形で拡大していくことになる。
2)自由主義と自由至上主義
よく混同されがちな2つの立場ですが、性格は全く異なります。
古典的自由主義と自由至上主義を同一とする(区別することが困難とする)立場はあるものの現代の自由主義(リベラリズム[Liberalism])と自由至上主義(リバタリアニズム[Libertalianism])は異なります。
自由主義が社会的公正を尊重するのに対し、自由至上主義は個人の自由を尊重します。
自由主義の場合は、社会における格差是正のために富の再分配や法規制を行い、平等を実現することを重視する立場です。従って国家の介入を一般的には肯定する立場となります。
自由至上主義の場合は、個人の自由を最も重視します。個人の身体や財産の所有権の侵害を原則認めない立場となります。従って富の再分配や法規制等の国家の介入を認めない立場となります。
例えば、ジェフ・ベゾスやビル・ゲイツから高い税金を徴税して社会に再分配することは自由主義では認められるが自由至上主義では財産権の侵害となり認められない。あくまでも再分配は彼らの自由意志によるものでなければならないとするのが自由至上主義である。
長くなったのでここまでにします。
次回は「国家と自由」について今回の内容を発展させたような内容にしたいと思います。
それじゃバイバイ(ฅ•ω•ฅ)