法哲学(1)第1講 法哲学とは何か
【目次】
0.イントロダクション
1.哲学とは何か
1.1 哲学とは何か
1.1.1 呪術的・神話的思考から哲学への転換
1.1.2 哲学の語源
1.1.3 相対主義から絶対主義へ
1.2 法哲学とは何か
1.2.1 法とは何か
1.2.2 法哲学とは何か
1.2.3 哲学をするということ
2.参考文献
0.イントロダクション
本講義(ブログ)をご覧いただきまして大変ありがとうございます。今回は、「法哲学」という学問分野について全15回にわたって解説を試みようと思います。本講義(ブログ)の授業計画、授業目的、成績評価等につきましては下記のシラバス をご覧いただきますようお願いいたします。
シラバス の授業計画について、前半(第2講〜第6講)に「法とはどうあるべきか」という法価値論(正義論)を取り扱います。法の目指す価値とは何かについて、特に功利主義、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムを中心に取り扱いと思います。また後半(第7講〜12講)では、「法とは何か」という法概念論について取り扱います。法の性格について、特に法と道徳の関係、自然法論(ラートブルフ、フラー)、法実証主義(H.L.Aハート、ケルゼン)、解釈としての法(R.ドゥオーキン)を取り扱います。また現代における法哲学として、動物の権利論、反出生主義、法とジェンダー論、生命倫理(安楽死、尊厳死、エンハンスメント)、世代間正義、気候正義、世界正義論、AIと法、法デザイン論の中からいくつかの論点を取り上げたいと思います。
それらの講義を通して、法哲学の基本的理論、概念、思考を理解し、法的思考力を滋養することを目的とします。
本講義(ブログ)の対象としては、法学・哲学・倫理学を学びたい学生や社会人、高校倫理の延長としてより深く理解したい学生、仕事における哲学的思考を身につけたい社会人等を対象としています。法学、哲学、倫理学についてすでに基本的理解があることは前提とせず、未修者においても理解するよう努めますが、各自わからない点等あれば、予習や復習において質問や調べることによって解決するよう求めます。
本講義(ブログ)の理解度(達成度)の評価としてレポートを課しますが、余裕のある人だけで十分です。ぜひ余裕があれば挑戦してみてください。
本講義(ブログ)では、教科書を指定しません。各講義において参考文献、参考書を提示するのでより理解を深めたい人は図書館や書店等にて閲覧、購入されることをお勧めします。
それでは全15回の長期連載となる予定ですが、どうぞ最後までお付き合いくださいますようお願いいたします。
1.法哲学とは何か
1.1 哲学とは何か
1.1.1 呪術的・神話的思考から哲学への転換
大昔(紀元前6世紀以前)、世界は神話によって形づけられていました。科学がない世界では、説明できない自然現象を神話によって説明していました。たとえば、「カミナリはなぜ起きるの?」という疑問に、人々は「神さまが怒っているからだ」とか「神さまがトンカチで山をたたいているからだ」といった「神さまが〜」というような説明をして、それが神話になり伝承されてきました。
哲学の誕生は古代ギリシアが起源だと考える人が多いですが、実際には3つの地域で同時多発的に起こります。1つめは古代ギリシアのタレスに始まる自然哲学であり、2つめは中国の孔子や老子をはじめとする諸子百家が、3つめはインドのウパニシャッド哲学やブッダやマーハーヴィーラらの六師外道らによります。なぜこの頃にこれらの地域において思考の転換が訪れたのか。それはおそらく「ポリス」などの都市国家が互いに接触しあったからです。あるポリスで信じられてきた神話が、違うポリスではまた違った神話を持っていることを確認し、いままで信じてきた神話を疑い始めたのが哲学の誕生の契機だと考えます。それを支えたのは、奴隷制度によって市民に閑暇(スコレー)が生まれ、市民同士で討論や学問をする余裕が出てきたからです。
1.1.2 哲学の語源
今日における「哲学」は西周(にしあまね:1829ー1897)がphilosophyを翻訳したものですが、そもそもphilosophyとは「愛」を意味する「フィロス(φίλος)」の動詞形である「フィレイン(φιλεῖν)」と、「知」を意味する「ソフィア(σοφία))」が結びついた「フィロソフィア(φιλοσοφία)」が語源である。哲学とは知を愛するという意味が込められているのは、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
1.1.3 相対主義から絶対主義へ
相対主義とは、「真理や正しさや価値というものは、それ自体で存在する絶対的なものではなく、人によって違ったり、文化によって違ったり、国家によって違ったりといったような相対的に変化する」というような考え方です。古代ギリシアにおいては、「人間は万物の尺度である」という言葉で有名なプロタゴラス(Protagoras:前500年頃〜前430年頃)に代表されるソフィストらが相対主義を弁論術の一つとして活躍したが、ソクラテス(Sokrates:前470年〜前399年)によって絶対的な真理の探究が始まったといえるでしょう。
1.2 法哲学とは何か
1.2.1 法とは何か
「法とは何か」は法概念論で取り扱うテーマであるが、少しだけここで取り扱いたいと思います。
法の概念規定をめぐる問題には、(a)「法は規範であるか」、(b)「法はどのような規範か」の2つの領域があります。
法哲学者の長尾龍一(1938ー)によれば、法の役割として以下の7つを挙げています。
(1)本能の秩序
アリストテレスは、「人間は社会的(ポリティコン)なもので、共生(シュゼーン)することを本性とする」といっているが(『ニコマコス倫理学』)、その本性に反する状態になると、「淋しい」とか「退屈だ」とかと感ずる。シューペンハウアーによれば、お互いに愛し合ってもいない人間が相求め合うのは退屈の故である。退屈という害悪は、飢饉と同様に人間を無法状態に駆り立てる危険なもので、どの国家もそれを防止するために国策として「パンとサーカス」を提供する。
誰しも1人では生きていけないように、すべての人間は他者と関わり合いながら生きています。孤独のなかで生きれば、「淋しい」や「退屈」といった感情が湧き上がってくるはずです。マズローの欲求階層説においても、生理的欲求という一次的欲求についで、安全の欲求、所属と愛情の欲求、承認の欲求、さらには自己実現の欲求という二次的欲求(心理的社会的欲求)がつづきます。飢饉やパンというのが生理的欲求であり、退屈やサーカスが二次的欲求を意味していますが、退屈な状態では人は欲求不満(フラストレーション)が起こります。そのとき人間の中でこの欲求不満を回避するために合理的解決(合理的方法によって欲求不満を解決する)、攻撃・近道反応(衝動的・短絡的に欲求を満たそうとすること)、防衛機制(抑圧、合理化、同一視、投射、反動形成、逃避、退行、代償、昇華)が働きます。特に攻撃・近道反応が起これば、無法状態になりかねません。その本能的な情動を規制する(秩序だてる)のが法であるということです。
(2)習慣の法則
人間も、大部分の行動は、無意識的な習慣によって行なっている。「習慣は第二の天性である」(Costom is second nature.)。自分の習慣が本能でないことは、違った習慣の持ち主に出会うまでは気がつかない。気がついても、「彼らは、あの卑しい行動をとるのだから、人間以下の存在だ」などと思いがちである。……ともあれ、習慣の人間行動に対する規制力は想像以上に大きい。専制支配などというのも、民衆の服従の習慣にその基盤を持っている。……「第二の天性」と化した習慣に従って行動する人間の集団においては、「社会あるところに習慣による共存のルールあり」ということになる。
習慣というものも法と密接的な関係にあります。特に習慣はその共同体の中の道徳を基礎付けるものですが、こういった道徳やそれにもとづく法というものは、その裏側にある習慣をルール化しているものと言えます。
(3)黙約
習慣のように無自覚的にではなく、意識的に、しかし言わず語らずのうちに、共存のルールが形成されることがある。
それが意識的な習慣でなくても、個々の関わり合いのなかで黙示的にルール化する場合があります。それを暗黙の了解といったような形で表されることが多いかもしれませんが、例えば、食堂で誰かがテーブルに物を置いているときにそのテーブルは誰の占有でもないと考える人は少ないと思います。つまり、物が置いてあるのだからここには誰かが座るのだろうと考えるはずです。それが個別具体的にその人だけの行動であれば、共同体内においてルール化することはないかもしれませんが、今回の場合のように自分もテーブルに物を置いたときに他人が横取りしないように、自分も他人から横取りしないように思うというこの黙示的な了解が、共同体内で共有されれば、それは法となるということです。
(4)技術的規範
世間の人々がすべて善意の人々であったとしても、うまくルールを作っておかないと衝突が起こる。ラートブルフはいう。
〔衝突防止のために方向を指示するような〕規範は、正義の義務を熟知し、それに完全に従うような完全無欠な人々の共同体においても必要である。それ故、法は人間の罪性に対するやむをえざる対策にすぎず、人類が罪から解放されて道徳的存在になった暁には法は消滅するだろうという主張は誤っている。「天使の軍勢」(die himmliche Heerscharenn)にも軍律は必要だろう。
全員が善人であれば、ルールは必要ないかといえば、そうではありません。方向を指示するルールがなければ、人がどこかに集まるときに入り口と出口が別々になっていなければ、人は衝突してしまいまうのと同じように、共同体の中で「正しいことと正しいこと衝突」が起こり得るからです。
(5)決断
人間の認識能力は、……特に未来への認識はほとんど閉ざされている。全くかけの要素を持たない行動は存在しない。したがって、善意の人々の社会に、技術規範を定立しようとする場合にも、対立が不可避的に生ずる。……また、人々がすべて、正義のために身を捨てて顧みないような人格であるとしても、「正義とは何か」、少なくとも個々の具体的事例に際しての正義が何かについては、簡単に意見は一致しない。そこから、「正義と邪悪の対立」ではなく、「正義と正義の対立」が生ずる。……人間は時間の中に生きているから、何事にもタイム・リミットがあり、何らかの賭けをするように迫られている。……多数決とか、判決の既判力とかという概念は、法の決断的性格を物語っている。ここでは「社会あるところ法あり」とは「社会あるところ決断あり」ということである。
未来のことについて、私たちは予測はできても知りようがありません。私たちがどのような社会をつくるかについて、それが正しいか正しくないかは、現在においては知りようがないと思います。そういう意味で、すべての行動は賭けであるということです。そうなれば、何が正しい選択かを簡単に一致させることは困難であると言えます。どちらもある程度の妥当性のある意見同士がぶつかり合えば、正義と正義の対立が必ず生じるからです。しかし、その板挟みの中で政治や司法は「決断」に迫られます。つまり、法とは多くの正しいと思われる意見の中からただ一つを共同体(構成員)の正義として選択の決断をした物であると言えます。
(6)組織規律
自発的な集団(voluntary associations)において、規律違反の最大の制裁は除名である(カトリック教会法においては「破門」)。伝統的中国の「礼」への違反に対する制裁は「恥」であり、最大の制裁は「君子」の世界からの追放であった。
すべての国家において、また多くの組織について、法が定まっています。そしてそれが構成員すべてに守られるように励行されています。
(7)強制規範
法の「強制説」の論者によると、法は物理的強制力行使の正当性の条件を定める規範である。……ただ、国家は、軍事力と警察呂を背景として、その規範を物理的に強制しうるところに、独自性がある。その強制力発動条件を定めるのが法だというのである。国家成立以前の原始社会においても、物理力行使の正当性の基準について諸部族間を実行的に支配する規範が成立するならば、そこには法がある。国際社会にも、国家の軍事力行使の正当性を判定する規範があるとき、国際法は法であるという。
法を破った者に対して制裁がなければ、法としての機能は果たさず、国家は無法状態に陥る。そうならないために、法は強制力をもっています。強制力とは、「甲は乙に〇〇すべし」というような命令の形で、実現されなかった状態を強制的に実現することだったり、「甲は〇〇の刑に処す」というような制裁を実現することをいいます。その背景には、警察力だったり、軍事力といったような物理的に実現させる強力な力がなければなりません。そして強制力の実現を正当化させることが法の役割であるということです。
1.2.2 法哲学とは何か
法哲学(Philosophy of law、Rechtsphilosophie、Philosophie du droit、(あまり一般的ではないが)Legal Philosophyなど)とは「法」という対象を「哲学」という手法を用いて考察する学問領域のことをいう。法律の勉強といえば、多くの人は条文の解釈であったり判例の研究を思い浮かべると思いますが、法哲学は、その法律・法制度・法現象・法文化について、それらの価値、意味、理念を究極的になぜ正しいのか、どのようにあるべきかを探究する学問であるといえます。その取り扱う範囲は、法律が現実の生活一般を対象にするように、法哲学もまた現実の生活一般あるいはその過去・現在・未来について考察するため、法学以外の学問領域にまたがります。十人十色といったように、法哲学も十人十色の考え方になることが多いです。しかし、全く共通点がないわけではありません。
法哲学の基本的理論・概念・思考を次回から見ていきたいと思います。前半は法価値論すなわち正義論について取り扱います。「正義とは何か?」という問いに対して、多くの哲学者が向き合ってきました。その一角を解説していこうと思います。
1.2.3 哲学をするということ
哲学をするとき、あるいは学ぶときに気をつけなければならないことが1つだけあります。
哲学をすること、あるいは学ぶことは、他の学問と違い決定的に違う点が一つだけあります。それは、他の学問は新しい知識を学ぶことによって、あるいは探究することを目的としますが、哲学については新しい知識を学ぶということ(概念の名称や理論等は新しい知識と言えなくはないが)はありません。というのも、哲学という学問は、私たちがすでに知っていること、経験していることを別の視点から考察することであるからです。
哲学をするということは、1つの危険性をはらんでいます。それは、私たちの生活から目新しさを奪ってしまうということです。一度物の捉え方が変わってしまえば、その逆には戻れません。素直に物を捉えられなくなってしまうかもしれません。
今もっている素直な気持ち、素直な物の捉え方もまたどうか大事になさってください。ではまた次回お会いしましょう。
2.参考文献
・長谷川晃、角田猛之編、「ブリッジブック法哲学」、2004、信山社
・長谷部恭男、「法とは何か」、2011、河出ブックス
・飲茶「史上最強の哲学入門」、2010、SUNーMAGAZINE MOOK
(なるせるな)