死刑制度の是非について
0.イントロダクション
今回は「死刑制度の是非について」考えてみたいと思います。
1.死刑制度の現状
1.1 死刑制度の存置・撤廃、死刑執行の状況
死刑制度の是非を問う前に、死刑制度の運用について見ていこうと思います。我が国では、死刑制度を採用する死刑存置国のひとつですが、アムネスティ・インターナショナルによれば2019年12月末の時点で死刑廃止国が106ヵ国、通常犯罪のみ廃止している国が8ヵ国、事実上廃止している国が28ヵ国、死刑存置国が56ヵ国となっています。現状としては死刑存置国は全体の3割弱の比率となっており、死刑存置国で主な国としては、日本、米国(一部の州は死刑廃止)、中国、台湾、タイ、ベトナム、インド、インドネシアが挙げられます。
2019年における死刑の執行数についてアムネスティ・インターナショナルによれば、中国の死刑(処刑)を含めないで657件(前年度比▲43件)の執行が確認されています。死刑執行をした国は2018年と同数の20ヵ国であったが、2018年において執行があったアフガニスタン、台湾、タイでは2019年には執行がなかった。2018年執行がなかったが、2019年執行があったのはバーレーンとバングラディッシュと2018年に執行を確認できなかったが、2019年に執行が確認されたシリア。
1.2 執行方法
死刑の執行方法について、日本は絞首を採用している。2019年において、執行方法については、斬首、電気椅子、絞首、致死薬注射、銃殺が確認されている。
・斬首:サウジアラビア
・電気椅子:米国
・絞首:バングラディッシュ、ボツワナ、エジプト、イラン、イラク、日本、パキスタン、シンガポール、南スーダン、スーダン、シリア
・致死薬注射:中国、米国、ベトナム
・銃殺:バーレーン、ベラルーシ、中国、北朝鮮、ソマリア、イエメン
(Amnesty International「2019年の死刑判決と死刑執行」より)
1.3日本の状況
日本については、2019年の死刑執行数は3件であり、前年度比▲12件と大幅に減少している。ただし、これは2014年〜2017年と比べると同水準。執行された3人は、いずれも殺人罪で有罪判決を受けており、うち1人は再審請求中での死刑執行となった。また、新たな死刑判決は2件でありここ数年では一番少ない。
内閣府による令和元年度の世論調査によれば、(1)死刑制度の存廃について、「死刑は廃止すべきである」と答えた者は9.0%(平成26年度同調査比▲0.7%)、「死刑もやむを得ない」と答えた者が80.2%(△0.5%)、「わからない・一概に言えない」と答えた者が10.2%(△0.3%)となっており、8割の国民が死刑是認の立場である。
「死刑は廃止すべきである」と答えた者(142人)に対して、その理由を聞いたところ、「裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない」が50.7%(平成26年度同調査比△4.1%)、「生かしておいて罪の償いをさせたほうがよい」が42.3%(▲1.3%)、「死刑を廃止しても、そのために凶悪犯罪が増加するとは思わない」が32.4%(▲1.4%)、「人を殺すことは刑罰であっても、人道に反し、野蛮である」が31.7%(△0.9%)、「国家であっても人を殺すことは許されない」が31.0%(▲1.3%)、「凶悪な犯罪を犯した者でも、更生の可能性がある」が28.2%(△1.1%)となっている。
「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,270人)に対して、その理由を聞いたところ、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」が56.6%(平成26年同調査比△3.2%)、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」が53.6%(△0.7%)、「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」が47.4%(±0)、「死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える」が46.3%(▲0.9%)となっている。また、死刑制度に関して「将来も死刑を廃止しないほうがよいか」、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」を聞いたところ、前者は54.4%(▲3.1%)、後者が39.9%(▲0.6%)となっている。
(2)死刑の犯罪抑止力として、死刑がなくなった場合、凶悪な犯罪が増えるか増えないかを聞いたところ、「増える」と答えた者が58.3%(平成26年度同調査比△0.6%)、「増えない」と答えた者が13.7%(▲0.6%)となっている。
(3)終身刑を導入した場合の死刑制度の存廃について、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止するほうがよいか、しないほうがよいかを聞いたところ、「死刑を廃止するほうがよい」と答えた者が35.1%(平成26年度同調査比▲2.6%)、「死刑を廃止しないほうがよい」と答えた者が52.0%(△0.5%)となっている。
1.4 死刑制度の近年の動向
1.4.1 日弁連「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」
犯罪が起こったとき、我々は、これにどう向き合うべきなのか。そして、どうすれば、人は罪を悔いて、再び罪を犯さないことができるのだろうか。
……犯罪により、命が奪われた場合、失われた命は二度と戻ってこない。このような犯罪は決して許されるものではなく、遺族が厳罰を望むのは、ごく自然なことである。
一方で、生まれながらの犯罪者はおらず、犯罪者となってしまった人の多くは、家庭、経済、教育、地域等における様々な環境や差別が一因となって犯罪に至っている。……。
このように考えたときに、刑罰制度は、犯罪への応報であることにとどまらず、罪を犯した人を人間として尊重することを基本とし、その人間性の回復と、自由な社会への社会復帰と社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)の達成に資するものでなければならない。……。
(中略)
……このように、国際社会の大勢が死刑の廃止を志向しているのは、死刑判決にも誤審のおそれがあり、刑罰としての死刑にその目的である重大犯罪を抑止する効果が乏しく、死刑制度を維持すべき理由のないことが次第に認識されるようになったためである。……。
しかも、日本では過去4件の死刑確定事件について再審無罪が確定し、2014年3月には袴田事件の再審開始決定がなされ、袴田氏は48年ぶりに釈放された。死刑制度を存続させれば、死刑判決を下すか否かを人が判断する以上、えん罪による処刑を避けることができない。さらに、我が国の刑事違法制度は、長期の身体拘束・取調べや証拠開示等に致命的欠陥を抱え、えん罪の危険性は重大である。えん罪で死刑となり、執行されてしまえば、二度と取り返しがつかない。(以下省略)
(2016年10月7日、日本弁護士連合会「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」による)
1.4.2 冤罪について
(1)死刑冤罪事件
免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件
(2)死刑判決事件
帝銀事件、三鷹事件、牟礼事件、藤本事件、名張毒ぶどう酒事件、波崎事件、袴田事件、三崎事件、晴山事件、道庁爆破事件
(3)無期懲役再審無罪
梅田事件、足利事件
(4)無期懲役事件
丸正事件、狭山事件、日産サニー事件
(5)有期懲役再審無罪
榎井村事件、弘前大教授夫人殺し事件、徳島ラジオ商殺し事件
(6)有期懲役事件
2.問題の所在
2.1 刑罰の目的とは何か?
刑罰の目的といえば、多くの人がハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」に代表される犯罪者への「応報」を挙げるのではないでしょうか。近代刑法理論における刑罰の学派として古典学派と近代学派の対立がありますが、古典学派が応報刑論を刑罰の本質として捉えています。一方で、近代学派は目的形論を刑罰の本質して捉えており、刑罰の目的は法益の保護と社会防衛であるとしています。日本の刑法理論において、刑罰の目的としては応報刑論による一般予防(要するに、犯罪を抑止すること)と目的刑論による特別予防(要するに、再犯を予防をすること)としています。
死刑である以上、特別予防はありえない。そうであるならば、死刑の根拠は一般予防しかありえない。死刑によって、私たちは犯罪をしないと思うだろうか?
2.2 死刑の不可逆性
死刑が執行されれば、その生命は二度と戻ることはない。人が人を裁く以上、冤罪の可能性はなくならない。生きていれば刑事補償請求権(憲法40条)により、損失を填補するために、国に対して補償を求めることができる。しかし、死刑が執行されれば補償すらすることはできなくなる。そのため、冤罪は死刑の問題と非常に密接な関係をもつため、冤罪による死刑を考えなければならない。
何人も、抑留または拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国に補償を求めることができる。
2.3 残虐刑の禁止
死刑は、憲法36条が要請する公務員による拷問、残虐刑の禁止に該当するかどうかが問われる。現時点においては、死刑(絞首刑)は残虐な刑罰には該当しないとするのが、最高裁の立場である。しかし、時代と環境によっては人道上の見地から一般に残虐性を有すると認められるものについては、同規定に違反するものと解されている。絞首刑は、残虐な刑といえるだろうか?あるいはより残虐でない死刑の執行方法はあるだろうか?
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
死刑はまさに究極の刑罰であり、また冷厳ではあるが、刑罰としての死刑そのものが直ちに同条における、いわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ、死刑といえども他の刑罰の場合におけるのと同様に、その執行の方法などがその時代と環境とにおいて、人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、もちろん残虐な刑罰といわねばならぬから、将来、もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの如き残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそまさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである(最高裁大法廷判決昭和23年3月12日)
刑罰としての死刑は、その執行方法が人道上の見地から特に残虐性を有すると認められないかぎり,死刑そのものをもって直ちに一般に憲法36条にいわゆる残虐な刑罰に当るといえないという趣旨は、すでに当裁判所大法廷の判示するところである。現在各国において採用している死刑執行方法は,絞殺、斬殺、銃殺、電気殺、瓦斯殺等であるが、これらの比較考量において一長一短の批判があるけれども、現在わが国の採用している絞首方法が他の方法に比して特に人道上残虐であるとする理由は認められない。従って絞首刑は憲法36条に違反するとの論旨は理由がない。(最高裁判所大法廷昭和30年4月6日判決)
2.4 被害者の救済
多くの犯罪には、被害者が存在する。当然、被害者の救済も刑法ないし刑罰には期待される。しかし、救済とは何か?死刑で被害者は救われるのだろうか?
被害者の救済について、経済的支援として「犯罪被害者給付制度」があります。また、精神的社会的支援としては「犯罪被害者等基本法」により総合的に定められており、被害者への相談や情報の提供、損害賠償請求への支援、保健、医療、福祉サービスの提供や犯罪被害者等の二次被害防止、安全確保、居住・雇用の安定、刑事に関する手続きへの参加の機会を拡充するための制度の設備等が行われています。
2.5 犯罪の抑止力
2.5.1 凶悪犯罪の推移
凶悪犯罪(殺人罪、強盗罪、放火罪、強制性交等罪)の平成22年〜平成30年の推移について以下の通り。
数値は認知件数で算出。合計のみ折れ線グラフ。縦軸単位(人)出典は犯罪白書より作成。
2.5.2 死刑の抑止力について
米国を例に検討したい。下の画像はWikipediaより。
アメリカにおける死刑存置州と死刑廃止州の10万人あたりの暴力犯罪の発生率について2018年7月時点の数値を参考に以下のようになった。
死刑廃止州の方が死刑存置州よりも暴力犯罪の発生率が低くなっているものの、あくまでも死刑の抑止力の要素にすぎず、ただちに死刑に犯罪の抑止力があると結論づけることはできないことに注意。
特に、犯罪の発生については前に掲載の日弁連の宣言の内容にもあるように家庭、経済、教育、地域等様々な要因があることに留意しなければならない。アメリカにおいては北部に死刑廃止州が多く、南部に死刑存置州が多いことが窺える。
また、2000年以降に死刑廃止したニューヨーク州(2004年)、ニュージャージー州(2007年)、ニューメキシコ州(2009年)、イリノイ州(2011年)、コネチカット州(2012年)、メリーランド州(2013年)、デラウェア州(2017年)、ワシントン州(2018年)、コロラド州(2020年)の殺人の犯罪率について1990年〜2018年までの推移は下のグラフのようになった。
少なくとも2000年以降で死刑廃止によって殺人の犯罪率が急激に上昇した州はなかった。
3.死刑について私観
私は、死刑について「反対」の立場を採っています。以下、私観を述べたいと思います。
3.1 死刑は国民を幸福にするだろうか
厳罰化の問題と重なりますが、厳罰化をすればするほど私たちが被る制裁(苦痛)が増えます。刑罰の目的でも述べたように、一般予防と特別予防のどちらも刑罰を正当化する根拠になります。しかし、死刑には一般予防しかない。1人の命をなくすための苦痛とそれによって得られる効用(あるいは無期懲役や終身刑等の死刑をしなかったとき)を比較してもらえれば、死刑をすることが幸福の増大に寄与しないことはわかるのではないでしょうか。
被害者は、自分の家族を、恋人を、友人を殺した人が生きているのはおかしいと思うのは当然だと思います。ただ、刑法は復讐の法ではないと思います。犯人を死刑にしても、無期懲役にしても失った命は戻ってきません。できることは更生させることだけです。
☆ベッカリーア「犯罪と刑罰」より『16 死刑について』から一部抜粋(pp.90−91:岩波文庫)
人間が同胞をぎゃく殺する「権利」をいったい誰が与えることができたのか?…法律とは各個人の自由の割前ー各人がゆずることのできる最小の割前の総体以外の何物でもない。それは個々人の意思の総体である総意を表示する。さてしかし、誰が彼の生命をうばう「権利」を他の人々に与えたいなどと思っただろうか? どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由ーあらゆる財産の中で最も大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろう? もしこのようなことが肯定されるのだとすれば、このような原理と、自殺を禁じているいましめとをどうやって調和させるというのか? 人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人にーたとえそれが社会にであったとしてもーゆずり渡すことはできないはずだ。
→ベッカリーアは「犯罪と刑罰」の同項目部分において、「国家の通常の状態」以外で1人の国民の死が必要とみなされる場合を2つ挙げている。1つ目は、無政府状態において1人の国民が自由を束縛されていても彼の持つ諸関係と名望とによって、彼の生存が現存の政体を危うくする革命を生む危険がある場合。2つ目は、死刑が他の人々に犯罪を犯させないようにするただひとつのクツワであるということ。また、ベッカリーアは死刑の代替として終身隷役刑を挙げています。
Q:法はもともと「復讐」からはじまっているのだから、被害者の「応報感情」を尊重するべきではないか?
A:古代ゲルマン法においては、ジッペ(氏族共同体)における血讐(フェーデ:仇敵関係)も認められていたことを考えれば、刑罰の目的は応報であるという意見も筋が通ります。しかし、被害者に刑罰を与えることが刑法(法律)の目的であるとするのであれば、①死刑だけが被害者の応報感情を満足させる手段ではないこと、②応報感情を優先させた場合、私刑や拷問など直観には反する結論を招くこと(例:被害者による死刑囚への拷問)などの問題点が生じます。
※参考文献:勝田有恒ほか編「概説西洋法制史」ミネルヴァ書房、2004
3.2 死刑によって犯罪を減らすことができるか
2.5の通り、死刑に犯罪の抑止力はないというのが一般的な見解ではないでしょうか。死刑には、一般予防しかありませんから犯罪抑止力がない場合は、すでに正当化する根拠がありません。
被害者の救済について、国ができることは犯人の命をもって償わせることではなく、経済的・精神的支援に他なりません。当然その補償が十分かどうかは議論の余地はあると思います。少なくても次の被害者を出さないための行動や政策が求められます。
3.3 冤罪がなくせないなら
人が人を裁く以上、冤罪がなくせないのは当然の帰結であると思います。そして冤罪をなくすことも死刑賛成派と反対派両方が合意する点だと思います。戦後から4件の死刑判決が再審無罪となっているのを多いとみるか少ないとみるかはそれぞれだと思いますが、冤罪が起こりうる状況であるのは事実であると思います。死刑とその他の自由刑では、冤罪の性質は全く異なってくることも死刑に賛成できない点だと思います。
冤罪は冤罪の議論であって、死刑の議論と一緒にするべきではないという意見がありますが、私はそうは思いません。確かに、冤罪になってしまった場合、無罪の人に刑罰を与えてしまったことは死刑であっても自由刑であっても取り返しのつかないことであるのは理解できます。2.2の死刑の不可逆性が死刑と自由刑を大きく分ける点になります。すなわち、自由刑の場合であれば経済的・精神的支援をすることで補償することができますが、死刑の場合はその補償すらできなくなってしまいます。
Q:現行犯の場合には、冤罪の可能性がないので死刑を維持できるのではないか?
A:現行犯逮捕なら冤罪の可能性がない(限りなく少ない)ため、死刑を採用してもよいのではないかという意見もありますが、私はそうは思いません。現行犯であるから刑罰を重くしてもよいというのは、何を根拠に正当化されるのでしょうか?また、現行犯逮捕してしまったから死刑になってしまったという解釈もできると思います。現場に負担を増やすべきではないと思います。
Q:生きていれば、金銭で補償(救済)できるというのは詭弁ではないか?
A:私たち(国)が冤罪を被せられた人にできることは何でしょうか? お金で解決といえば印象が悪いのは当然の感覚だと思いますが、国にできることは金銭で補償することしかできません。冤罪はどの量刑であっても取り返しのつかない意味では大きいも小さいもないのかもしれません。ただ、死刑の冤罪についてはその補償すら奪ってしまうのです。そのような意味で「取り返しがつかない」ということです。