r_u_x_n_a’s diary

議論、趣味、その他

法哲学(2)第2講 幸福とは何か

【目次】

0.幸福とは何か

1.功利主義とは何か

 1.1 ベンサム

  1.1.1 ベンサムの生きた時代
  1.1.2 最大多数の最大幸福
  1.1.3 功利主義の構成要素
  1.1.4 刑罰と功利性の原理

 1.2 J.S ミル

  1.2.1 質的功利主義
  1.2.2 他者危害原理

2.功利主義の展開

 2.1 積極的功利主義と消極的功利主義

 2.2 直接功利主義と間接功利主義

  2.2.1 行為功利主義
  2.2.2 規則功利主義
  2.2.3 二層理論

 2.3 総量功利主義と平均功利主義

  2.3.1 総量功利主義と平均功利主義
  2.3.2 問題の所在

 2.4 選好功利主義

3.功利主義批判

 3.1 帰結主義の問題点

 3.2 厚生主義の問題点

 3.3 総和主義の問題点 

4.参考文献

 

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0.幸福とは何か

 法哲学の第2講のテーマは「幸福とは何か」についてです。人生の目的とは何かと問われれば、多くの人は幸せになることと答えるのではないでしょうか。「幸福であること」を追求することが正義である……。では、「幸福」とは一体何なのでしょうか?

 「幸福とは何か」という問いはアリストテレス等に代表されるように古代ギリシア哲学からずっと問われてきました。「幸福とは何か」という問いに明確な正義の原理として「効用」と主張したのが、今回のテーマの中心である「功利主義」と呼ばれる立場です。

 

1.功利主義とは何か

 1.1 ベンサム

  1.1.1 ベンサムの生きた時代

   功利主義を体系的に確立したのはイギリスの哲学者であるジェレミーベンサムJeremy Bentham:1747〜1832)です。彼は12歳でオックスフォード大学に入学し、15歳で法学院に入学、21歳で弁護士資格を取得するものの、裁判実務の道ではなく、書斎の哲学者としての道を選びます。1770年代には、当時イングランド法の第一人者であるブラックストーンの『イングランド法注釈』を批判する『注釈の評釈』を発表。当時のコモンロー法体系に関わる「批判的法学」を構想し、憲法・刑法・民法の法典作成を生涯の課題としていました。1789年に発表した『道徳および立法の諸原理序説』は、功利主義を確立しただけでなく、当時の旧体制(アンシャンレジーム)を批判し、フランス革命に影響を与えるものでした。

   ベンサムが生きた時代は、イギリスの産業革命によって産業・経済・社会全般に大きな変革がもたらされた時代でした。特に、哲学の分野においてはアダム=スミス(Adam Smith:1723ー1790)に代表される道徳感情論__善悪はすべての人に生まれつきそなわる道徳感覚(モラル=センス:moral sense)によって直接的にすることができるとする__が台頭していました。ベンサム道徳感情論に影響を受けており、善悪は「快楽」と「苦痛」という「客観的」な道徳感情によって判断されるとしています。特にベンサムに影響を与えたのが、イタリアの法学者チェザーレ・ベッカーリア(Cesare Bonesana Beccaria:1738-1794)です。ベンサムは、ベッカーリアを読み、功利主義を要約するフレーズとして「※最大多数の最大幸福」を用いました。また、ベンサムデイヴィッド・ヒューム(David Hume:1711-1776)の『人間本性論』の中で、私たちが何を徳とみなすかはその効用によって決定されるという主張に影響を受けています(※ヒュームが功利主義を提唱)。

 

  1.1.2 最大多数の最大幸福

   ベンサムは、社会を諸個人からなるものと捉え、諸個人の幸福の総和が社会全体の幸福であると考えました。

 

 その行為が正しいか正しくないかは、その行為の結果が社会にとってより多くの「快楽」を増大させること、または「苦痛」を減少させるかどうかによって判断されます。これを功利性の原理(the principle of utility)といいます。

 

   すなわち、功利主義とは、より多くの人(=社会)がより多くの「幸福」を享受していることが、望ましい社会のあり方であると考えます。「※最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the greatest number)」は、その功利主義を要約している一文と言えます。

 

ベンサムは、「最大多数の最大幸福」という表現ではなく、最大幸福原理として使用しています。「最大多数の最大幸福」が最初に現れたのは、スコットランドの哲学者であるフランシス・ハチスン(Francis Hutcheson:1694ー1746)の『美と徳の観念の起源』の中です。

 

 自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないのかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。……

 功利性の原理とは、その利益(interest)が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって……すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。……

 功利性とは、ある対象の性質であって、それによってその対象が、その利益が考慮されている当事者に、利益、便宜、快楽、善、または幸福[これらは全部同じと捉えても差し支えない]を生みだし、または、危害、苦痛、害悪または不幸[これらも全部同じと捉えても差し支えない]が起こることを防止する傾向をもつものを意味する。ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会全体の幸福のことであり、特定の個人の場合である場合には、その個人の幸福のことである。

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』より『世界の名著49』pp.81ー83

 

   では、「快楽」あるいは「苦痛」が多いかまたは少ないかをどうやって判断するのでしょうか。ベンサムは、「快楽」や「苦痛」を分類できるものであると捉え、さらにある程度計算できるものであると考えました。快楽の量(価値)は、(1)その強さ、(2)その持続性、(3)その確実性、(4)その遠近性、(5)その多産性、(6)その純粋性、(7)その範囲に従って大小が決定する。この一連の手続き(検証)を「快楽計算」といいます。ベンサムは、この快楽計算を厳密に数値化しようと試みましたが、挫折しました。

   次に、「快楽」や「苦痛」をどのように分類したのでしょうか。ベンサムは、14の快楽と12の苦痛に分類しました。快楽については、(1)感覚の快楽、(2)富の快楽、(3)熟練の快楽、(4)親睦の快楽、(5)名声の快楽、(6)権力の快楽、(7)敬虔の快楽、(8)慈愛の快楽、(9)悪意の快楽、(10)記憶の快楽、(11)想像の快楽、(12)期待の快楽、(13)連想に基づく快楽、(14)解放の快楽と分類しています。また、苦痛については、(1)欠乏の苦痛、(2)感覚の苦痛、(3)不器用の苦痛、(4)敵意の苦痛、(5)悪名の苦痛、(6)敬虔の苦痛、(7)慈愛の苦痛、(8)悪意の苦痛、(9)記憶の苦痛、(10)想像の苦痛、(11)期待の苦痛、(12)連想に基づく苦痛であるとしています。

 

   快楽と苦痛の分類について、ひとつずつ見てみましょう。

   (1)感覚の快楽(⇔感覚の苦痛)

     1)嗜好または味覚の快楽(⇔①飢えまたは渇きの苦痛、②味覚の苦痛)

     2)酩酊の快楽

     3)嗅覚の快楽(⇔③嗅覚の苦痛)

     4)触覚の快楽(⇔④触覚の苦痛、⑤熱さや冷たさから生み出される苦痛)

     5)聴覚の快楽(⇔⑥聴覚の苦痛)

     6)視覚の快楽(⇔⑦視覚の苦痛)

     7)性的感覚の快楽

     8)健康の快楽[完全な健康と活力の状態、特に適度の肉体的な運動に伴う、内的な快い感情、または精力の躍動](⇔⑧病気の苦痛、⑨努力の苦痛)

     9)新奇の快楽[新しいものを何かの感覚に感ずることによって、好奇心を満足させることから引き出される快楽]

   (2)富の快楽(⇔欠乏の苦痛)

     富の快楽とは、享楽または安全の手段の目録の中にあげられる、何らかの財物を所有しているという意識から引き出される快楽のことをいいます。

    1)入手の快楽

    2)所有の快楽

   (3)熟練の快楽(⇔不器用の苦痛)

    熟練の快楽は、特定の対象の上に加えられ、困難や努力を伴わなければ手に入れにくいような、特定の享楽の手段を、自分の使用に供することによって伴う快楽をいいます。

   (4)親睦の快楽(⇔敵意の苦痛)

    親睦の快楽または自己推薦の快楽とは、特定の人の好意を獲得または所有しているという確信、または特定の人と仲良くしているという確信、およびその結果として友人たちの自発的で無償の奉仕を受ける立場にあるという確信に伴う快楽をいいます。

   (5)名声の快楽(⇔悪名の苦痛)

    名声の快楽とは、周囲の世間(自分が関係を持ちやすい人々)の好意を、獲得または所有しているという確信、およびその結果として、彼らの自発的で無償の奉仕を受ける利益を持っているという確信に伴う快楽のことをいいます(良い評判、名誉心または道徳的制裁の快楽ということもある)。

   (6)権力の快楽

    権力の快楽とは、人々の期待と恐怖(自分が人々に与えることができるある奉仕への期待、または危害への恐怖)によって、人々を自分に奉仕させることができる立場にあるという確信に伴う快楽をいいます。

   (7)敬虔の快楽(⇔敬虔の苦痛)

    敬虔の快楽とは、至高の存在の行為または恩恵を獲得または所有しているという確信、またはその結果として、現世または来世において、紙の特殊の命令によって与えられる快楽を享受する立場にあるという確信に伴う快楽のことをいいます(宗教の快楽、宗教的傾向の快楽または宗教的制裁の快楽ということもある)。

   (8)慈愛の快楽(⇔慈愛の苦痛)

    慈愛の快楽とは、慈愛の対象となりうる存在が持つと想像される快楽を考えることから生まれる快楽のことをいいます(好意の快楽、共感の快楽、慈悲深い感情または社会的感情の快楽ということもある)。慈愛の対象となりえる存在とは、私たちが親愛の情をもっている感覚的存在であって、それに普通含まれているのは、(1)至高の存在、(2)人間、(3)その他の動物となります。

   (9)悪意の快楽(⇔悪意の苦痛)

    悪意の快楽とは、悪意の対象となりうる存在が受けると想像される苦痛を考えることから生まれる快楽のことをいいます(憎悪の快楽、怒りの快楽、反感の快楽、悪意のある感情または反社会的感情の快楽ということもある)。悪意の対象となりうる存在とは(1)人間、(2)動物です。

   (10)記憶の快楽(⇔記憶の苦痛)

    記憶の快楽とは、ある快楽を享受したのち、ある場合には苦痛を経験したのちでさえ、それらの快楽または苦痛を現実に経験されたのと同じ順序と状況において、思い出すことによって得られる快楽をいいます(回想の快楽ということもある)。

   (11)想像の快楽(⇔想像の苦痛)

    想像の快楽とは、たまたま記憶によって呼び起こされたある快楽を考えることから引き出される快楽ですが、それももとの経験とは異なった順序と状況で考えることから引き出される快楽のことをいいます。

   (12)期待の快楽(⇔期待の苦痛)

    期待の快楽とは、未来に関する、そして確信という感情を伴った、ある種の快楽を考えることから生まれる快楽のことをいいます。

   (13)連想に基づく快楽(⇔連想の苦痛)

    連想の快楽とは、あるものまたはある出来事が、それ自体からでなく、それ自体として快適なあるものまたは出来事と、心の中で結びついた連想のために、たまたま生み出すような快楽のことをいいます。

   (14)解放の快楽

    解放の快楽とは、苦痛に基づく快楽をいいます。それはある人がある種の苦痛を一定期間にわたって経験したのちに、その苦痛がなくなったか、または少なくなった時に感じる快楽のことをいいます。

 

  1.1.3 功利主義の構成要素

   功利主義の構成要素は、(1)帰結主義、(2)厚生主義、(3)総和主義です。

 

   (1)帰結主義(consequentialism)

    帰結主義とは、ある行為が正しいかどうかは、その帰結が良いか悪いかを評価することが重要であるという考え方のことをいいます。帰結主義は、結果論とは異なるので注意しなければいけません。結果論は行為を事後的に評価するのに対して、帰結主義は行為の正しさを事前の予測に基づいて評価する点に違いがあります。

 

   (2)厚生主義(welfarism)

    厚生主義とは、行為が人々の幸福に与える影響こそが重要な帰結であるとする考え方をいいます。

 

   (3)総和主義(aggregationism)

    総和主義とは、ある個人の幸福を最大化させるのではなく、人々の幸福の総和を最大化させることを重視する考え方のことをいいます。このときに、「各人を一人として数え、誰もそれ以上には数えない」ということが重要です(平等算入公準)。

 

  1.1.4 刑罰と功利性の原理

   ベッカリーアは、『犯罪と刑罰』の中で刑罰と功利について次のように述べています。

 

 犯罪はこれを罰するより予防をしたほうがいい。だから犯罪を予防することはよい法制の目的であるはずだ。数学的な計算でこの世の幸福と不幸をはかることとすれば、人々に可能なマキシマムの幸福を与え、ミニマムの苦痛を与えるのが、法律の技術ということになろう。

ベッカーリア『犯罪と刑罰』p.188

 

   ベンサムは、当時のイギリス刑法の不合理と矛盾について厳しく批判しています。ベンサムは、すべての法律の目的を、社会の幸福の総計を増大させ、害悪を除去することであるといいます。また、すべての刑罰はそれ自体としては害悪であり、功利性の原理によれば、より大きい害悪を除去する限りにおいて承認されうるとしています。ベンサムは、このような観点から次の4つを刑罰を科すべきではない場合として挙げています。

 

   (1)刑罰を科する根拠がない場合

   (2)刑罰の効果がない場合

   (3)刑罰が不利益な場合

   (4)刑罰の必要がない場合

 

   さらにベンサムは、刑罰の従属的な目的を4つ挙げています。刑罰の目的とは、

 

   (1)どのような犯罪も行われないようにすることである。

   (2)犯罪がどうしても行われるとするならば、有害性の多い犯罪よりも有害性の少ない犯罪をするようにしむけることである。

   (3)ある人が犯罪を決意した場合に必要である以上に害悪を生み出さないようにしむけることである。

   (4)刑罰によって防止しようとする害悪がどのようなものであっても、できるだけ安価な費用で防止することである。

 

   以上より、ベンサムによれば、刑罰とはそれ自体としては害悪であり、刑罰を与えることによって得られる利益が刑罰を与えることによって生じる苦痛より大きい場合にのみ認められる。

 

ベンサムの4つの制裁(サンクション)】

 ベンサムは、強制力による制裁について次の4つに分類しています。

 ①自然的制裁…自然に与えられる制裁(人為的でない)

 ②政治的制裁…法律によって与えられる刑罰

 ③道徳的制裁…世間の人々から与えられる社会的非難

 ④宗教的制裁…神の罰への恐れなど

 

   ちょっと話は逸れますが、ベンサムの刑法に関する実務的提言としては「パノプティコン」が有名です。パノプティコン(panopticon)とは、全展望監視システムのことであり、円形に配置された収容者の個室が、その中央に配置された監視塔に面するように配置されており、看守からはすべての収容者を監視できるが、収容者からは看守がいるかどうかわからないような設計になっている。これは、運営の経済性(社会的コスト)と収容者の福祉を両立する目的で、少ない運営者のもとで多数の収容者を監視でき、そのなかで収容者が自力で更生できるような教育を与えるためのシステムといえます。ベンサムが、刑法や監獄改革に熱心であったのは、功利主義の思想のもとより幸福な社会の実現のためだったといえると思います。

 

 1.2 J.S ミル

  1.2.1 質的功利主義

   次に紹介するのは、ベンサムと友好関係にあったジェームズ・ミル(James Mill:1773ー1836)の長男であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill:1806ー1873)です。ミルは、ベンサムとジェームズの説いた功利主義を継承するものの、20歳のときに父からの知識偏重の英才教育への行き詰まりから精神の危機に陥るものの、それを契機にベンサム功利主義に対する疑念を抱き、ミル独自の功利主義へ移行することになります。こうしてミルは次の2つを考えました。第1に、「幸福になる唯一の道は、幸福それじたいを人生の目的とするのではなく、それ以外のものを人生の目的に選ぶことにある」ということです。第2に、「幸福になるためには『知性』を重視するだけではなく、個々人の内的教養ともいえる『道徳性』を高めることが重要である」ということです。これは、知的教養や分析能力が個人の進歩にも社会の進歩にも欠かせない条件であると同時に、ミル自身に欠如していた「感情の陶冶」が加わり、これらの正当なバランスを維持していくことが重要であると考えました。こうしてミルは、個々人の意識を全体の幸福に向けさせるという考えから、個々人が知的・道徳的に進歩していくことを重視する考え方に変わり、それが社会全体を幸福に導くという質的功利主義の考えに変わりました。ミルは『功利主義論』のなかで質的功利主義を次のように述べています。

 

 ある種の快楽はほかの快楽よりもいっそう望ましく、いっそう価値があるという事実を認めても、功利の原理とは少しも衝突しないのである。ほかのものを評価するときには、量のほかに質も考慮されるのに、快楽の評価にかぎって量だけでやれというのは不合理ではないか。

 それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということだけでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。……2つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が2つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知の上で選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的に優れていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。

 ところで、両方を等しく知り、等しく感得し享受できる人々が、自分の持っている高級な能力を使うような生活態度断然選びとることは疑いのない事実である。……。

 ……人間はだれでも、何らかの形で尊厳の感覚をもっており、高級な能力と、厳密にではないが、ある程度比例している。この感覚が強い者にとっては、これと衝突するものは、瞬時をのぞけば、いっさい欲求の対象たりえないほど、彼の幸福の本質的部分をなしている。この選択が、幸福を犠牲にして行われると想像する者__同じような環境のもとでは、すぐれた人間は劣った人間より幸福でないと想像する者__は、幸福と満足という2つの非常にちがう観念を混同しているのである。感受能力の低いものは、それを十分満足させる機会に最も恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世では不完全なものでしかないと感じるであろうことはいうまでもない。しかしこういう人も、不完全さが忍べるものであるかぎり、忍ぶことを習得できる。そして、不完全だからといって、不完全さをまるで意識しない人間を羨んだりしないだろう。不完全さを意識しないのは、このような不完全さをもつ(高級な)前を感じる能力が全然ないということだからである。

 満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足である馬鹿であるあり不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もし馬鹿なり豚なりがこれと違った意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

ミル『功利主義論』より『世界の名著49』pp.468ー470

 

 

  1.2.2 他者危害原理

   ミルは、功利主義が多数派の専制をもたらす可能性を指摘している。そのうえで、自由に対する干渉を限界づける原理(他者危害原理)を提唱している。ミルは、他者危害原理(harm principle)について次のように述べている。

 

 それでは、何が、個人の自分自身に対する主権の正当な限界はあるのだろうか。社会の権力はどこから始まるのだろうか。人間生活のどこまでが個人に帰属すべきで、どこまでが社会に帰属すべきなのだろうか。……。

 各人の行為は、第一に、相互の利益を侵害するものであってはならない。つまり、法律の明文あるいは暗黙の了解のいずれかによって権利とみなされるべき一定の利益を侵害してはならない。第二に、各人は、危害や妨害から社会やその構成員を守るために必要な労苦や犠牲を(何らかの公平な原則によって定められた形で)分担しなければならない。これらの条件を免れようとする人に対しては、社会はなんとしても条件を守るように強制してもよい。社会がしてよいことはこれだけではない。個人の行為は、他人の法的権利までは侵犯しなくても、他人につらい想いをさせたり、他人の幸福に対して法律上の処罰はよくないとしても、世論(社会的非難)による処罰なら正当だろう。ある人の行為の何らかの部分が他の人の利益に有害な影響を与えるや否や、社会はその行為について判断を下す権限を持つことになる。そして、この行為に干渉することで社会全般の利益が促進されるのか、されないのかをめぐる議論が始まるのである。

 しかし、ある人の行為が他の人々の利益を損なわない場合、あるいは、他の人々の側が(その人と関わり合いを持つことを)望まなければ利益を損なわれずに済む場合には、(関わりあいを持つことになる人たち全員が成人に達していて、通常の理解力を持っている限りでのはなしだが)、このような問題(社会による干渉の必要性)を考える余地はない。こういう場合にはいつでも、行為しその結果を引き受ける完全な自由が、法的にも社会的にもあるべきである。……。

  成年に達している人に対して、その人が選んだ生き方ではその人の利益にならないからそうした生き方をするな、と命じる権限は、一人だろが何人だろうが誰にもいない。その人自身の幸福に最も関心を持つのは、その人本人である。……。

 

  ミルは、自由(意思の自由ではなく、市民生活における自由)について、他者に危害を与えない限りにおいては自由を認めています。この原理は、2つの意味を含意しています。1つは、制約が認められるのは他者に害が生じる現実の危険が存在する場合である。この行為を見るのが不快であるとか不安であるといった心理的な要素は、正当な根拠としては認めていない。もう1つは、行為者自身にのみ危害が及ぶような行為を強制的にやめさせることはできないということです。もしある選択が本人の不利益につながる場合でも、本人がそれを望む場合は、社会が介入して行為を規制することは許されません。

 

 このような「可能な限り個人の選択を尊重して国家の介入を抑制する」考え方をリベラリズム自由主義)といいます。詳しくは「第3講 自由とは何か」や「第5講 正義とは何か」で取り扱いたいと思いますが、功利主義者であるミルからリベラリズム自由主義)が伺えることを押さえておきましょう。

 

 

2.功利主義の展開

 

 ベンサムとミルの古典的功利主義について簡単に触れてきましたが、本章では功利主義をもう少し具体的に分けていきたいと思います。功利主義の中でも様々な分類がありますので、一つ一つ見ていこうと思います。

 

 2.1 積極的功利主義と消極的功利主義

   最初は積極的功利主義と消極的功利主義についての論点になります。この論点は難しくないので、さらっとながしてもらってもかまいません。

  さて、功利主義の基本的な定式は「快楽がより多く、苦痛がより少ない状態がより幸福な状態である」としています。これを式にすれば、

 

幸福の総量=「快楽の総量」−「苦痛の総量」

 

となります。しかし、私たちの価値観は多様で、何を快楽とするかについては多様であるように思えます。一方で、苦痛についてはある程度の共通の部分があるように思えます。だれにとっても幸福という状態は共通の認識をえるのは困難ではありますが、だれにとっても苦痛という状態はある程度の共通の認識を得ることができます。もし仮にそうであるのならば、社会制度を構築する際に、より幸福な社会を目指すのではなく、より苦痛のない社会を目指したほうが合理的です。このような考え方を消極的功利主義といいます(イメージとしては「最小不幸社会」)。一方で、より快楽の多い社会こそがより幸福な社会であるとするのが積極的功利主義です(イメージとしては「最大幸福社会」)。

 ただし、必ずしも全ての苦痛を最小化すべきかといわれればそうではありません(例えば、努力することによる苦痛など)。最小化されるべきは根拠のある苦痛のみです。苦痛の中で、最小化されるべきものとそうではないものを区別するためには、人はいかなる苦痛を除去される権利を持つかを確定させる必要があります。そういう意味において、消極的功利主義功利主義のみを前提としているわけではありません。

 

 2.2 行為功利主義と規則功利主義

  2.2.1 行為功利主義(直接功利主義

   行為功利主義(act utilitarianism:直接功利主義)とは、功利性の原理を単一の行為に適用する立場のことをいいます。初期のベンサムやミルの功利主義は、行為功利主義に分類されることが多いです。

 

  2.2.2 規則功利主義(間接功利主義

   一方で規則功利主義(rule utilitarianism:間接功利主義)とは、功利性の原理を単一の行為に適用するのではなく、功利性の原理との関係によって諸規則が定められ、個々の行為は定められた諸規則との関係によって正・不正を判断するという立場をいいます。つまり、個々の行為について二段階で評価します。まず、規則を採用する段階では、その規則が社会の幸福を最大化するかどうかという基準で評価します。次に、個々の行為については、第一段階で採用された規則に合致しているかどうかという基準で評価します。

 

  2.2.3 二層理論

   行為功利主義と規則功利主義を統合したのはイギリスの哲学者リチャード・ヘア(Richard Marvyn Hare:1919-2002)です。ヘアは、道徳的判断を直感レベルと批判レベルに区分します。日常のなかでは、私たちは直感的規則を受け入れ、それに従うべきだとしています。しかし、直感的規則を選択する場合や、複数の直感的規則が衝突する場合には、批判レベルへ移行し、功利主義を基礎に行為するべきだとしています。

 

 

 2.3 総量功利主義と平均功利主義

  2.3.1 総量功利主義と平均功利主義

   総量功利主義とは、幸福の総量を最大化するようにするような功利主義です。一方で、平均功利主義とは、個人の幸福の平均に着目し、ひとりひとりの幸福の平均を最大化するようにするような功利主義です。多くの部分でこれらは一致するものの、人口政策等については全くの正反対な結論を導きます。例えば、現在1億人の社会において、現在一人当たりの幸福量が1(ポイント)であるとき、この社会の総幸福量は1億(ポイント)となる。このとき、子育て政策について積極政策を採るとき、将来の人口は1億5千万人となるが一人当たりの幸福量に変化はないとする。また、消極政策を採るとき、将来の人口は5千万人になるが、一人当たりの幸福量が2(ポイント)となるとする。この例において、総量功利主義は積極政策をとる。一方で、平均功利主義は一人当たりの幸福量に着目すればよいので、消極政策を採用する。

 

【総量】に着目すると

 積極政策:一人当たり幸福量1(ポイント)×1億5千万人=1億5千万(ポイント)

 消極政策:一人当たり幸福量2(ポイント)×5千万人=5千万(ポイント)

 よって、積極政策>消極政策となる。

【平均】に着目すると

 消極政策(2ポイント)>積極政策(1ポイント)なので、消極政策を採用する。

 

  2.3.2 問題の所在

   総量功利主義と平均功利主義にはそれぞれ大きな問題点を持っています。総量功利主義は、幸福の総量に着目するため、多くの人が生まれれば、個人の幸福が低い状態でもかまわないというような結論を導きます。先ほどの例におくと、将来100億人になるが一人当たりの幸福量が0.02であるとき社会全体の幸福の総量は2億(ポイント)となるため、そうするべきであるという結論になる。一方で、平均功利主義の場合、幸福の平均が少しでも下がる場合にはそうするべきではないという結論になる。つまり、人口がいくら増える政策で、1を下回る(例えば0.99)場合、そうするべきではないという結論になる。

 

 2.4 選好功利主義

  功利主義は、社会における快楽を最大化せよとする。快楽説に基づく功利主義を快楽功利主義と呼びます。一方で、快楽そのもの自体に価値があること何かという問題があります。そうした問題のため、効用とは、快楽ではなく選好充足(望む選択が満たされること)であるとし、選好(preference)が最大に充足することを重要視するのが選好功利主義と呼ばれる立場です。

  選好功利主義の問題点を挙げておきます。代表的な問題としては(1)選好充足は善か(価値があるか)という問題、(2)外的選好について、(3)適応的選考の問題などが挙げられます。

 

  (1)選好充足は善か

    これは選好を充足すること自体に価値があるかという問題である。選好功利主義の場合、選好するからそれを充足することが善であると考えるが、むしろ逆で善だからこそ選好するべきであると考えるのではないだろうか。

 

  (2)外的選好の問題

    私たち自身が経験する事態に関わる選好のことを個人的選好というのに対して、他人が経験し、自分自身は経験しない事態に関わる選考のことを外的選好という。社会に偏見がある場合に外的選好を考慮すると、少数者の負の選好が強くても、多数者の正の選好に凌駕されてしまいます。例えば、黒人差別の強い時代において黒人を隔離することが正当化されてしまう。そうであるとすると、社会に存在する選好を所与として、選好充足を単純に最大化するのではなく、選好が正しいかどうかを精査しなければならない。

 

  (3)適応的選好の問題

    制限された環境や構造的に差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために必要な選好を持たなくなるという問題があります。これを適用的選好の形成といいます。単純に選好の充足を測定し、最大化すればいいということができないのはこのためです。

 

 

3.功利主義批判

 この章では、功利主義の問題点についてQ&A方式で応答していく。

 

 3.1 帰結主義

 

(1)知識の限界

Q:功利主義は、帰結を重視しますが、行為の判断時において情報を完全に入手できることは不可能ではないか?

A:行為判断時において情報を完全に入手することは不可能であることは認めつつも、その時点において最も幸福を最大化させる(と思われる)選択をすればよい。仮に新しい情報が追加されて当初よりも得られる幸福が少なくなるのであれば、その時点で再度最も幸福を最大化させる選択をすればよい。

 

(2)一貫性の問題

Q:帰結主義は、個々人のかけがえのなさ(一貫性:integrity)を考慮しない。例えば、1人の命を引き換えに臓器移植を行うことで5人の命が救われる場面において、功利主義者は迷うことなく1人の犠牲を厭わない。これは義務論的制約(deontological constraints)_その行為が社会全体の善の総量が多くなる(あるいは悪の総量が少なくなる)としても、それを行うべきではない_に反するのではないか?

A:行為の評価は、その行為を誰が行ったかによって変わることを行為者相関的であるというが、帰結主義は上記の意味では、行為者中間性である。行為者中間的であることは個々人の一貫性を説明することはできないかもしれないが、自己の感情など主観的な判断に依拠することなく同様の一貫した結論を示す点においては有効な立場であることは言えると思います。

 

(3)過剰な要求

Q:帰結主義は、個人に対して過剰な要求をしてしまうのではないか? 例えば、1000円で貧困国の子どもの命を10人救うことができるならば、あなたが自分のお小遣いで好きなものを買うときに、貧困国の子供を救うためにチャリティーを行わなければならないのではないか?

A:帰結主義の原則からすれば、当然私のお小遣いを貧困国の子ども10人を救うためにチャリティーを行うべきであるとします。ただし、これは規則功利主義のように、規則を遵守するなかであれば、自己の選好に委ねるというような反論をすることができます。

 

 

 

 3.2 厚生主義

 

(1)快楽だけが価値があるのか

Q:功利主義は、快楽(効用)のみを重視しており、権利や自由などを軽視しているのではないか?

A:功利主義は、確かに快楽(効用)を最も重視していますが、これが権利や自由を軽視しているとは限りません。功利主義は、権利や自由自体に直接的に価値を認めませんが、権利や自由が快楽(効用)に寄与する限りにおいては当然それらにも価値を認めます。つまり、権利や自由自体に価値があり、それを目的とするのではなくて、あくまでも幸福を最大化させるための手段として権利や自由を肯定します。

 

(2)効用は測定可能か

Q:効用を数値化することは当然不可能ですよね?

A:当初ベンサムは、快楽をリスト化し厳密に数値化できると考えていたようですが、結局厳密に数値化することは不可能であることは多くの功利主義者の間でも了解が得られる部分であると思います。ただし、効用を数値化できないからといって測定できないかと言われればそうではありません。これは効用の基数性(one、two、three…)と序数性(first、second、third…)の問題ですが、特に選好功利主義については効用の序数性があれば問題ありません。複数の選択肢の中で順序さえわかれば、その選択肢のどれを選ぶべきかが分かるというわけです。

 

(3)効用の個人間比較

Q:効用が数値化できないのであれば、効用を個人間で比較することは不可能ではないか?

A:(2)でも述べたとおり、効用の数値化は不可能であると思います。効用の個人間比較については、効用の基数性がない以上、不可能です。しかし、そもそも功利主義は効用の個人間比較についてはあまり問題にはなりません。それは功利主義が総和主義、すなわち社会全体の幸福の総量を最大化させることが目的であるからです。

 

 

 3.3 総和主義

(1)誰の効用か?

Q:社会全体の幸福(効用)を集計するにあたって、どの範囲まで功利計算をするべきなのか?

A:ある行為をするときにその利害関係となる範囲と考えるのが妥当ではないでしょうか。当初功利主義は社会全体というようなある共同体内における幸福を最大化させることを目的としてきたと考えられますが、そこには共同体に含まれない他者の存在を無視しているとも捉えられます。例えば、外国人や胎児、動物など様々な主体が存在する中である共同体の中でのみ功利計算をするべきであると考えるのは難しいのではないでしょうか?

 

(2)分配に関する無関心

Q:総和主義は、社会全体の効用の総和を重視するので、分配について無関心なのではないか?

A:総和主義は、社会全体の効用の総和について重視することを前提としているが、分配について無関心ではありません。特に、功利主義は多数者の専制や平等に無関心であるという批判もありますが、同様に功利主義は、個々の効用についても無関心ではありません。効用について、ミクロ経済学厚生経済学で重要な原則として、限界効用逓減の法則があります。これは、「モノを1つ追加したときに得られる効用は、追加すればするほど小さくなっていく」ということです。例えば、最初のビールはとても美味しいと感じますが、5杯目のビールは(最初より)あまり美味しいと感じないということです。誰か一人に多くの財やモノを集中するよりも多くの人に分配したほうが社会全体の効用は上がるのだから分配すべきだというような結論を導くことは可能です。 

 

さて、功利主義の概観は以上になります。功利主義は現代においても有力な立場の一つですので、覚えておくようにしましょう。

次回は、自由についてリバタリアニズムなどの思想を見ていきたいと思います。

ではまた次回お会いしましょう。

 

 

4.参考文献

カタジナ・デ・ラザリ=ラデク、ピーターシンガー「功利主義とは何か」、2018、岩波書店

児玉聡「功利主義入門」、2012、ちくま新書

ジェームズレイチェルズ「現実を見つめる道徳哲学」、2003、晃洋書房

J.S.ミル「自由論」、2020、岩波文庫

品川哲彦「倫理学入門」、2020、中公新書

関嘉彦編「世界の名著49 ベンサム・J.S.ミル」、1979、中央公論社

瀧川裕英、宇佐美誠、大屋雄裕法哲学」、2014、有斐閣

ベッカリーア「犯罪と刑罰」、1938、岩波文庫