r_u_x_n_a’s diary

議論、趣味、その他

法哲学(2)第2講 幸福とは何か

【目次】

0.幸福とは何か

1.功利主義とは何か

 1.1 ベンサム

  1.1.1 ベンサムの生きた時代
  1.1.2 最大多数の最大幸福
  1.1.3 功利主義の構成要素
  1.1.4 刑罰と功利性の原理

 1.2 J.S ミル

  1.2.1 質的功利主義
  1.2.2 他者危害原理

2.功利主義の展開

 2.1 積極的功利主義と消極的功利主義

 2.2 直接功利主義と間接功利主義

  2.2.1 行為功利主義
  2.2.2 規則功利主義
  2.2.3 二層理論

 2.3 総量功利主義と平均功利主義

  2.3.1 総量功利主義と平均功利主義
  2.3.2 問題の所在

 2.4 選好功利主義

3.功利主義批判

 3.1 帰結主義の問題点

 3.2 厚生主義の問題点

 3.3 総和主義の問題点 

4.参考文献

 

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0.幸福とは何か

 法哲学の第2講のテーマは「幸福とは何か」についてです。人生の目的とは何かと問われれば、多くの人は幸せになることと答えるのではないでしょうか。「幸福であること」を追求することが正義である……。では、「幸福」とは一体何なのでしょうか?

 「幸福とは何か」という問いはアリストテレス等に代表されるように古代ギリシア哲学からずっと問われてきました。「幸福とは何か」という問いに明確な正義の原理として「効用」と主張したのが、今回のテーマの中心である「功利主義」と呼ばれる立場です。

 

1.功利主義とは何か

 1.1 ベンサム

  1.1.1 ベンサムの生きた時代

   功利主義を体系的に確立したのはイギリスの哲学者であるジェレミーベンサムJeremy Bentham:1747〜1832)です。彼は12歳でオックスフォード大学に入学し、15歳で法学院に入学、21歳で弁護士資格を取得するものの、裁判実務の道ではなく、書斎の哲学者としての道を選びます。1770年代には、当時イングランド法の第一人者であるブラックストーンの『イングランド法注釈』を批判する『注釈の評釈』を発表。当時のコモンロー法体系に関わる「批判的法学」を構想し、憲法・刑法・民法の法典作成を生涯の課題としていました。1789年に発表した『道徳および立法の諸原理序説』は、功利主義を確立しただけでなく、当時の旧体制(アンシャンレジーム)を批判し、フランス革命に影響を与えるものでした。

   ベンサムが生きた時代は、イギリスの産業革命によって産業・経済・社会全般に大きな変革がもたらされた時代でした。特に、哲学の分野においてはアダム=スミス(Adam Smith:1723ー1790)に代表される道徳感情論__善悪はすべての人に生まれつきそなわる道徳感覚(モラル=センス:moral sense)によって直接的にすることができるとする__が台頭していました。ベンサム道徳感情論に影響を受けており、善悪は「快楽」と「苦痛」という「客観的」な道徳感情によって判断されるとしています。特にベンサムに影響を与えたのが、イタリアの法学者チェザーレ・ベッカーリア(Cesare Bonesana Beccaria:1738-1794)です。ベンサムは、ベッカーリアを読み、功利主義を要約するフレーズとして「※最大多数の最大幸福」を用いました。また、ベンサムデイヴィッド・ヒューム(David Hume:1711-1776)の『人間本性論』の中で、私たちが何を徳とみなすかはその効用によって決定されるという主張に影響を受けています(※ヒュームが功利主義を提唱)。

 

  1.1.2 最大多数の最大幸福

   ベンサムは、社会を諸個人からなるものと捉え、諸個人の幸福の総和が社会全体の幸福であると考えました。

 

 その行為が正しいか正しくないかは、その行為の結果が社会にとってより多くの「快楽」を増大させること、または「苦痛」を減少させるかどうかによって判断されます。これを功利性の原理(the principle of utility)といいます。

 

   すなわち、功利主義とは、より多くの人(=社会)がより多くの「幸福」を享受していることが、望ましい社会のあり方であると考えます。「※最大多数の最大幸福(the greatest happiness of the greatest number)」は、その功利主義を要約している一文と言えます。

 

ベンサムは、「最大多数の最大幸福」という表現ではなく、最大幸福原理として使用しています。「最大多数の最大幸福」が最初に現れたのは、スコットランドの哲学者であるフランシス・ハチスン(Francis Hutcheson:1694ー1746)の『美と徳の観念の起源』の中です。

 

 自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないのかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。……

 功利性の原理とは、その利益(interest)が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって……すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。……

 功利性とは、ある対象の性質であって、それによってその対象が、その利益が考慮されている当事者に、利益、便宜、快楽、善、または幸福[これらは全部同じと捉えても差し支えない]を生みだし、または、危害、苦痛、害悪または不幸[これらも全部同じと捉えても差し支えない]が起こることを防止する傾向をもつものを意味する。ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会全体の幸福のことであり、特定の個人の場合である場合には、その個人の幸福のことである。

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』より『世界の名著49』pp.81ー83

 

   では、「快楽」あるいは「苦痛」が多いかまたは少ないかをどうやって判断するのでしょうか。ベンサムは、「快楽」や「苦痛」を分類できるものであると捉え、さらにある程度計算できるものであると考えました。快楽の量(価値)は、(1)その強さ、(2)その持続性、(3)その確実性、(4)その遠近性、(5)その多産性、(6)その純粋性、(7)その範囲に従って大小が決定する。この一連の手続き(検証)を「快楽計算」といいます。ベンサムは、この快楽計算を厳密に数値化しようと試みましたが、挫折しました。

   次に、「快楽」や「苦痛」をどのように分類したのでしょうか。ベンサムは、14の快楽と12の苦痛に分類しました。快楽については、(1)感覚の快楽、(2)富の快楽、(3)熟練の快楽、(4)親睦の快楽、(5)名声の快楽、(6)権力の快楽、(7)敬虔の快楽、(8)慈愛の快楽、(9)悪意の快楽、(10)記憶の快楽、(11)想像の快楽、(12)期待の快楽、(13)連想に基づく快楽、(14)解放の快楽と分類しています。また、苦痛については、(1)欠乏の苦痛、(2)感覚の苦痛、(3)不器用の苦痛、(4)敵意の苦痛、(5)悪名の苦痛、(6)敬虔の苦痛、(7)慈愛の苦痛、(8)悪意の苦痛、(9)記憶の苦痛、(10)想像の苦痛、(11)期待の苦痛、(12)連想に基づく苦痛であるとしています。

 

   快楽と苦痛の分類について、ひとつずつ見てみましょう。

   (1)感覚の快楽(⇔感覚の苦痛)

     1)嗜好または味覚の快楽(⇔①飢えまたは渇きの苦痛、②味覚の苦痛)

     2)酩酊の快楽

     3)嗅覚の快楽(⇔③嗅覚の苦痛)

     4)触覚の快楽(⇔④触覚の苦痛、⑤熱さや冷たさから生み出される苦痛)

     5)聴覚の快楽(⇔⑥聴覚の苦痛)

     6)視覚の快楽(⇔⑦視覚の苦痛)

     7)性的感覚の快楽

     8)健康の快楽[完全な健康と活力の状態、特に適度の肉体的な運動に伴う、内的な快い感情、または精力の躍動](⇔⑧病気の苦痛、⑨努力の苦痛)

     9)新奇の快楽[新しいものを何かの感覚に感ずることによって、好奇心を満足させることから引き出される快楽]

   (2)富の快楽(⇔欠乏の苦痛)

     富の快楽とは、享楽または安全の手段の目録の中にあげられる、何らかの財物を所有しているという意識から引き出される快楽のことをいいます。

    1)入手の快楽

    2)所有の快楽

   (3)熟練の快楽(⇔不器用の苦痛)

    熟練の快楽は、特定の対象の上に加えられ、困難や努力を伴わなければ手に入れにくいような、特定の享楽の手段を、自分の使用に供することによって伴う快楽をいいます。

   (4)親睦の快楽(⇔敵意の苦痛)

    親睦の快楽または自己推薦の快楽とは、特定の人の好意を獲得または所有しているという確信、または特定の人と仲良くしているという確信、およびその結果として友人たちの自発的で無償の奉仕を受ける立場にあるという確信に伴う快楽をいいます。

   (5)名声の快楽(⇔悪名の苦痛)

    名声の快楽とは、周囲の世間(自分が関係を持ちやすい人々)の好意を、獲得または所有しているという確信、およびその結果として、彼らの自発的で無償の奉仕を受ける利益を持っているという確信に伴う快楽のことをいいます(良い評判、名誉心または道徳的制裁の快楽ということもある)。

   (6)権力の快楽

    権力の快楽とは、人々の期待と恐怖(自分が人々に与えることができるある奉仕への期待、または危害への恐怖)によって、人々を自分に奉仕させることができる立場にあるという確信に伴う快楽をいいます。

   (7)敬虔の快楽(⇔敬虔の苦痛)

    敬虔の快楽とは、至高の存在の行為または恩恵を獲得または所有しているという確信、またはその結果として、現世または来世において、紙の特殊の命令によって与えられる快楽を享受する立場にあるという確信に伴う快楽のことをいいます(宗教の快楽、宗教的傾向の快楽または宗教的制裁の快楽ということもある)。

   (8)慈愛の快楽(⇔慈愛の苦痛)

    慈愛の快楽とは、慈愛の対象となりうる存在が持つと想像される快楽を考えることから生まれる快楽のことをいいます(好意の快楽、共感の快楽、慈悲深い感情または社会的感情の快楽ということもある)。慈愛の対象となりえる存在とは、私たちが親愛の情をもっている感覚的存在であって、それに普通含まれているのは、(1)至高の存在、(2)人間、(3)その他の動物となります。

   (9)悪意の快楽(⇔悪意の苦痛)

    悪意の快楽とは、悪意の対象となりうる存在が受けると想像される苦痛を考えることから生まれる快楽のことをいいます(憎悪の快楽、怒りの快楽、反感の快楽、悪意のある感情または反社会的感情の快楽ということもある)。悪意の対象となりうる存在とは(1)人間、(2)動物です。

   (10)記憶の快楽(⇔記憶の苦痛)

    記憶の快楽とは、ある快楽を享受したのち、ある場合には苦痛を経験したのちでさえ、それらの快楽または苦痛を現実に経験されたのと同じ順序と状況において、思い出すことによって得られる快楽をいいます(回想の快楽ということもある)。

   (11)想像の快楽(⇔想像の苦痛)

    想像の快楽とは、たまたま記憶によって呼び起こされたある快楽を考えることから引き出される快楽ですが、それももとの経験とは異なった順序と状況で考えることから引き出される快楽のことをいいます。

   (12)期待の快楽(⇔期待の苦痛)

    期待の快楽とは、未来に関する、そして確信という感情を伴った、ある種の快楽を考えることから生まれる快楽のことをいいます。

   (13)連想に基づく快楽(⇔連想の苦痛)

    連想の快楽とは、あるものまたはある出来事が、それ自体からでなく、それ自体として快適なあるものまたは出来事と、心の中で結びついた連想のために、たまたま生み出すような快楽のことをいいます。

   (14)解放の快楽

    解放の快楽とは、苦痛に基づく快楽をいいます。それはある人がある種の苦痛を一定期間にわたって経験したのちに、その苦痛がなくなったか、または少なくなった時に感じる快楽のことをいいます。

 

  1.1.3 功利主義の構成要素

   功利主義の構成要素は、(1)帰結主義、(2)厚生主義、(3)総和主義です。

 

   (1)帰結主義(consequentialism)

    帰結主義とは、ある行為が正しいかどうかは、その帰結が良いか悪いかを評価することが重要であるという考え方のことをいいます。帰結主義は、結果論とは異なるので注意しなければいけません。結果論は行為を事後的に評価するのに対して、帰結主義は行為の正しさを事前の予測に基づいて評価する点に違いがあります。

 

   (2)厚生主義(welfarism)

    厚生主義とは、行為が人々の幸福に与える影響こそが重要な帰結であるとする考え方をいいます。

 

   (3)総和主義(aggregationism)

    総和主義とは、ある個人の幸福を最大化させるのではなく、人々の幸福の総和を最大化させることを重視する考え方のことをいいます。このときに、「各人を一人として数え、誰もそれ以上には数えない」ということが重要です(平等算入公準)。

 

  1.1.4 刑罰と功利性の原理

   ベッカリーアは、『犯罪と刑罰』の中で刑罰と功利について次のように述べています。

 

 犯罪はこれを罰するより予防をしたほうがいい。だから犯罪を予防することはよい法制の目的であるはずだ。数学的な計算でこの世の幸福と不幸をはかることとすれば、人々に可能なマキシマムの幸福を与え、ミニマムの苦痛を与えるのが、法律の技術ということになろう。

ベッカーリア『犯罪と刑罰』p.188

 

   ベンサムは、当時のイギリス刑法の不合理と矛盾について厳しく批判しています。ベンサムは、すべての法律の目的を、社会の幸福の総計を増大させ、害悪を除去することであるといいます。また、すべての刑罰はそれ自体としては害悪であり、功利性の原理によれば、より大きい害悪を除去する限りにおいて承認されうるとしています。ベンサムは、このような観点から次の4つを刑罰を科すべきではない場合として挙げています。

 

   (1)刑罰を科する根拠がない場合

   (2)刑罰の効果がない場合

   (3)刑罰が不利益な場合

   (4)刑罰の必要がない場合

 

   さらにベンサムは、刑罰の従属的な目的を4つ挙げています。刑罰の目的とは、

 

   (1)どのような犯罪も行われないようにすることである。

   (2)犯罪がどうしても行われるとするならば、有害性の多い犯罪よりも有害性の少ない犯罪をするようにしむけることである。

   (3)ある人が犯罪を決意した場合に必要である以上に害悪を生み出さないようにしむけることである。

   (4)刑罰によって防止しようとする害悪がどのようなものであっても、できるだけ安価な費用で防止することである。

 

   以上より、ベンサムによれば、刑罰とはそれ自体としては害悪であり、刑罰を与えることによって得られる利益が刑罰を与えることによって生じる苦痛より大きい場合にのみ認められる。

 

ベンサムの4つの制裁(サンクション)】

 ベンサムは、強制力による制裁について次の4つに分類しています。

 ①自然的制裁…自然に与えられる制裁(人為的でない)

 ②政治的制裁…法律によって与えられる刑罰

 ③道徳的制裁…世間の人々から与えられる社会的非難

 ④宗教的制裁…神の罰への恐れなど

 

   ちょっと話は逸れますが、ベンサムの刑法に関する実務的提言としては「パノプティコン」が有名です。パノプティコン(panopticon)とは、全展望監視システムのことであり、円形に配置された収容者の個室が、その中央に配置された監視塔に面するように配置されており、看守からはすべての収容者を監視できるが、収容者からは看守がいるかどうかわからないような設計になっている。これは、運営の経済性(社会的コスト)と収容者の福祉を両立する目的で、少ない運営者のもとで多数の収容者を監視でき、そのなかで収容者が自力で更生できるような教育を与えるためのシステムといえます。ベンサムが、刑法や監獄改革に熱心であったのは、功利主義の思想のもとより幸福な社会の実現のためだったといえると思います。

 

 1.2 J.S ミル

  1.2.1 質的功利主義

   次に紹介するのは、ベンサムと友好関係にあったジェームズ・ミル(James Mill:1773ー1836)の長男であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill:1806ー1873)です。ミルは、ベンサムとジェームズの説いた功利主義を継承するものの、20歳のときに父からの知識偏重の英才教育への行き詰まりから精神の危機に陥るものの、それを契機にベンサム功利主義に対する疑念を抱き、ミル独自の功利主義へ移行することになります。こうしてミルは次の2つを考えました。第1に、「幸福になる唯一の道は、幸福それじたいを人生の目的とするのではなく、それ以外のものを人生の目的に選ぶことにある」ということです。第2に、「幸福になるためには『知性』を重視するだけではなく、個々人の内的教養ともいえる『道徳性』を高めることが重要である」ということです。これは、知的教養や分析能力が個人の進歩にも社会の進歩にも欠かせない条件であると同時に、ミル自身に欠如していた「感情の陶冶」が加わり、これらの正当なバランスを維持していくことが重要であると考えました。こうしてミルは、個々人の意識を全体の幸福に向けさせるという考えから、個々人が知的・道徳的に進歩していくことを重視する考え方に変わり、それが社会全体を幸福に導くという質的功利主義の考えに変わりました。ミルは『功利主義論』のなかで質的功利主義を次のように述べています。

 

 ある種の快楽はほかの快楽よりもいっそう望ましく、いっそう価値があるという事実を認めても、功利の原理とは少しも衝突しないのである。ほかのものを評価するときには、量のほかに質も考慮されるのに、快楽の評価にかぎって量だけでやれというのは不合理ではないか。

 それでは快楽の質の差とは何を意味するか。量が多いということだけでなく、快楽そのものとしてほかの快楽より価値が大きいとされるのは何によるのか。……2つの快楽のうち、両方を経験した人が全部またはほぼ全部、道徳的義務感と関係なく決然と選ぶほうが、より望ましい快楽である。両方をよく知っている人々が2つの快楽の一方をはるかに高く評価して、他方より大きい不満がともなうことを承知の上で選び、他方の快楽を味わえるかぎりたっぷり与えられてももとの快楽を捨てようとしなければ、選ばれた快楽の享受が質的に優れていて量を圧倒しているため、比較するとき量をほとんど問題にしなくてよいと考えてさしつかえない。

 ところで、両方を等しく知り、等しく感得し享受できる人々が、自分の持っている高級な能力を使うような生活態度断然選びとることは疑いのない事実である。……。

 ……人間はだれでも、何らかの形で尊厳の感覚をもっており、高級な能力と、厳密にではないが、ある程度比例している。この感覚が強い者にとっては、これと衝突するものは、瞬時をのぞけば、いっさい欲求の対象たりえないほど、彼の幸福の本質的部分をなしている。この選択が、幸福を犠牲にして行われると想像する者__同じような環境のもとでは、すぐれた人間は劣った人間より幸福でないと想像する者__は、幸福と満足という2つの非常にちがう観念を混同しているのである。感受能力の低いものは、それを十分満足させる機会に最も恵まれているが、豊かな天分をもつ者は、いつも、自分の求めうる幸福が、この世では不完全なものでしかないと感じるであろうことはいうまでもない。しかしこういう人も、不完全さが忍べるものであるかぎり、忍ぶことを習得できる。そして、不完全だからといって、不完全さをまるで意識しない人間を羨んだりしないだろう。不完全さを意識しないのは、このような不完全さをもつ(高級な)前を感じる能力が全然ないということだからである。

 満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足である馬鹿であるあり不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もし馬鹿なり豚なりがこれと違った意見をもっているとしても、それは彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

ミル『功利主義論』より『世界の名著49』pp.468ー470

 

 

  1.2.2 他者危害原理

   ミルは、功利主義が多数派の専制をもたらす可能性を指摘している。そのうえで、自由に対する干渉を限界づける原理(他者危害原理)を提唱している。ミルは、他者危害原理(harm principle)について次のように述べている。

 

 それでは、何が、個人の自分自身に対する主権の正当な限界はあるのだろうか。社会の権力はどこから始まるのだろうか。人間生活のどこまでが個人に帰属すべきで、どこまでが社会に帰属すべきなのだろうか。……。

 各人の行為は、第一に、相互の利益を侵害するものであってはならない。つまり、法律の明文あるいは暗黙の了解のいずれかによって権利とみなされるべき一定の利益を侵害してはならない。第二に、各人は、危害や妨害から社会やその構成員を守るために必要な労苦や犠牲を(何らかの公平な原則によって定められた形で)分担しなければならない。これらの条件を免れようとする人に対しては、社会はなんとしても条件を守るように強制してもよい。社会がしてよいことはこれだけではない。個人の行為は、他人の法的権利までは侵犯しなくても、他人につらい想いをさせたり、他人の幸福に対して法律上の処罰はよくないとしても、世論(社会的非難)による処罰なら正当だろう。ある人の行為の何らかの部分が他の人の利益に有害な影響を与えるや否や、社会はその行為について判断を下す権限を持つことになる。そして、この行為に干渉することで社会全般の利益が促進されるのか、されないのかをめぐる議論が始まるのである。

 しかし、ある人の行為が他の人々の利益を損なわない場合、あるいは、他の人々の側が(その人と関わり合いを持つことを)望まなければ利益を損なわれずに済む場合には、(関わりあいを持つことになる人たち全員が成人に達していて、通常の理解力を持っている限りでのはなしだが)、このような問題(社会による干渉の必要性)を考える余地はない。こういう場合にはいつでも、行為しその結果を引き受ける完全な自由が、法的にも社会的にもあるべきである。……。

  成年に達している人に対して、その人が選んだ生き方ではその人の利益にならないからそうした生き方をするな、と命じる権限は、一人だろが何人だろうが誰にもいない。その人自身の幸福に最も関心を持つのは、その人本人である。……。

 

  ミルは、自由(意思の自由ではなく、市民生活における自由)について、他者に危害を与えない限りにおいては自由を認めています。この原理は、2つの意味を含意しています。1つは、制約が認められるのは他者に害が生じる現実の危険が存在する場合である。この行為を見るのが不快であるとか不安であるといった心理的な要素は、正当な根拠としては認めていない。もう1つは、行為者自身にのみ危害が及ぶような行為を強制的にやめさせることはできないということです。もしある選択が本人の不利益につながる場合でも、本人がそれを望む場合は、社会が介入して行為を規制することは許されません。

 

 このような「可能な限り個人の選択を尊重して国家の介入を抑制する」考え方をリベラリズム自由主義)といいます。詳しくは「第3講 自由とは何か」や「第5講 正義とは何か」で取り扱いたいと思いますが、功利主義者であるミルからリベラリズム自由主義)が伺えることを押さえておきましょう。

 

 

2.功利主義の展開

 

 ベンサムとミルの古典的功利主義について簡単に触れてきましたが、本章では功利主義をもう少し具体的に分けていきたいと思います。功利主義の中でも様々な分類がありますので、一つ一つ見ていこうと思います。

 

 2.1 積極的功利主義と消極的功利主義

   最初は積極的功利主義と消極的功利主義についての論点になります。この論点は難しくないので、さらっとながしてもらってもかまいません。

  さて、功利主義の基本的な定式は「快楽がより多く、苦痛がより少ない状態がより幸福な状態である」としています。これを式にすれば、

 

幸福の総量=「快楽の総量」−「苦痛の総量」

 

となります。しかし、私たちの価値観は多様で、何を快楽とするかについては多様であるように思えます。一方で、苦痛についてはある程度の共通の部分があるように思えます。だれにとっても幸福という状態は共通の認識をえるのは困難ではありますが、だれにとっても苦痛という状態はある程度の共通の認識を得ることができます。もし仮にそうであるのならば、社会制度を構築する際に、より幸福な社会を目指すのではなく、より苦痛のない社会を目指したほうが合理的です。このような考え方を消極的功利主義といいます(イメージとしては「最小不幸社会」)。一方で、より快楽の多い社会こそがより幸福な社会であるとするのが積極的功利主義です(イメージとしては「最大幸福社会」)。

 ただし、必ずしも全ての苦痛を最小化すべきかといわれればそうではありません(例えば、努力することによる苦痛など)。最小化されるべきは根拠のある苦痛のみです。苦痛の中で、最小化されるべきものとそうではないものを区別するためには、人はいかなる苦痛を除去される権利を持つかを確定させる必要があります。そういう意味において、消極的功利主義功利主義のみを前提としているわけではありません。

 

 2.2 行為功利主義と規則功利主義

  2.2.1 行為功利主義(直接功利主義

   行為功利主義(act utilitarianism:直接功利主義)とは、功利性の原理を単一の行為に適用する立場のことをいいます。初期のベンサムやミルの功利主義は、行為功利主義に分類されることが多いです。

 

  2.2.2 規則功利主義(間接功利主義

   一方で規則功利主義(rule utilitarianism:間接功利主義)とは、功利性の原理を単一の行為に適用するのではなく、功利性の原理との関係によって諸規則が定められ、個々の行為は定められた諸規則との関係によって正・不正を判断するという立場をいいます。つまり、個々の行為について二段階で評価します。まず、規則を採用する段階では、その規則が社会の幸福を最大化するかどうかという基準で評価します。次に、個々の行為については、第一段階で採用された規則に合致しているかどうかという基準で評価します。

 

  2.2.3 二層理論

   行為功利主義と規則功利主義を統合したのはイギリスの哲学者リチャード・ヘア(Richard Marvyn Hare:1919-2002)です。ヘアは、道徳的判断を直感レベルと批判レベルに区分します。日常のなかでは、私たちは直感的規則を受け入れ、それに従うべきだとしています。しかし、直感的規則を選択する場合や、複数の直感的規則が衝突する場合には、批判レベルへ移行し、功利主義を基礎に行為するべきだとしています。

 

 

 2.3 総量功利主義と平均功利主義

  2.3.1 総量功利主義と平均功利主義

   総量功利主義とは、幸福の総量を最大化するようにするような功利主義です。一方で、平均功利主義とは、個人の幸福の平均に着目し、ひとりひとりの幸福の平均を最大化するようにするような功利主義です。多くの部分でこれらは一致するものの、人口政策等については全くの正反対な結論を導きます。例えば、現在1億人の社会において、現在一人当たりの幸福量が1(ポイント)であるとき、この社会の総幸福量は1億(ポイント)となる。このとき、子育て政策について積極政策を採るとき、将来の人口は1億5千万人となるが一人当たりの幸福量に変化はないとする。また、消極政策を採るとき、将来の人口は5千万人になるが、一人当たりの幸福量が2(ポイント)となるとする。この例において、総量功利主義は積極政策をとる。一方で、平均功利主義は一人当たりの幸福量に着目すればよいので、消極政策を採用する。

 

【総量】に着目すると

 積極政策:一人当たり幸福量1(ポイント)×1億5千万人=1億5千万(ポイント)

 消極政策:一人当たり幸福量2(ポイント)×5千万人=5千万(ポイント)

 よって、積極政策>消極政策となる。

【平均】に着目すると

 消極政策(2ポイント)>積極政策(1ポイント)なので、消極政策を採用する。

 

  2.3.2 問題の所在

   総量功利主義と平均功利主義にはそれぞれ大きな問題点を持っています。総量功利主義は、幸福の総量に着目するため、多くの人が生まれれば、個人の幸福が低い状態でもかまわないというような結論を導きます。先ほどの例におくと、将来100億人になるが一人当たりの幸福量が0.02であるとき社会全体の幸福の総量は2億(ポイント)となるため、そうするべきであるという結論になる。一方で、平均功利主義の場合、幸福の平均が少しでも下がる場合にはそうするべきではないという結論になる。つまり、人口がいくら増える政策で、1を下回る(例えば0.99)場合、そうするべきではないという結論になる。

 

 2.4 選好功利主義

  功利主義は、社会における快楽を最大化せよとする。快楽説に基づく功利主義を快楽功利主義と呼びます。一方で、快楽そのもの自体に価値があること何かという問題があります。そうした問題のため、効用とは、快楽ではなく選好充足(望む選択が満たされること)であるとし、選好(preference)が最大に充足することを重要視するのが選好功利主義と呼ばれる立場です。

  選好功利主義の問題点を挙げておきます。代表的な問題としては(1)選好充足は善か(価値があるか)という問題、(2)外的選好について、(3)適応的選考の問題などが挙げられます。

 

  (1)選好充足は善か

    これは選好を充足すること自体に価値があるかという問題である。選好功利主義の場合、選好するからそれを充足することが善であると考えるが、むしろ逆で善だからこそ選好するべきであると考えるのではないだろうか。

 

  (2)外的選好の問題

    私たち自身が経験する事態に関わる選好のことを個人的選好というのに対して、他人が経験し、自分自身は経験しない事態に関わる選考のことを外的選好という。社会に偏見がある場合に外的選好を考慮すると、少数者の負の選好が強くても、多数者の正の選好に凌駕されてしまいます。例えば、黒人差別の強い時代において黒人を隔離することが正当化されてしまう。そうであるとすると、社会に存在する選好を所与として、選好充足を単純に最大化するのではなく、選好が正しいかどうかを精査しなければならない。

 

  (3)適応的選好の問題

    制限された環境や構造的に差別が存在する環境に育ってきた人は、その環境に適応した選好を形成してしまい、幸福になるために必要な選好を持たなくなるという問題があります。これを適用的選好の形成といいます。単純に選好の充足を測定し、最大化すればいいということができないのはこのためです。

 

 

3.功利主義批判

 この章では、功利主義の問題点についてQ&A方式で応答していく。

 

 3.1 帰結主義

 

(1)知識の限界

Q:功利主義は、帰結を重視しますが、行為の判断時において情報を完全に入手できることは不可能ではないか?

A:行為判断時において情報を完全に入手することは不可能であることは認めつつも、その時点において最も幸福を最大化させる(と思われる)選択をすればよい。仮に新しい情報が追加されて当初よりも得られる幸福が少なくなるのであれば、その時点で再度最も幸福を最大化させる選択をすればよい。

 

(2)一貫性の問題

Q:帰結主義は、個々人のかけがえのなさ(一貫性:integrity)を考慮しない。例えば、1人の命を引き換えに臓器移植を行うことで5人の命が救われる場面において、功利主義者は迷うことなく1人の犠牲を厭わない。これは義務論的制約(deontological constraints)_その行為が社会全体の善の総量が多くなる(あるいは悪の総量が少なくなる)としても、それを行うべきではない_に反するのではないか?

A:行為の評価は、その行為を誰が行ったかによって変わることを行為者相関的であるというが、帰結主義は上記の意味では、行為者中間性である。行為者中間的であることは個々人の一貫性を説明することはできないかもしれないが、自己の感情など主観的な判断に依拠することなく同様の一貫した結論を示す点においては有効な立場であることは言えると思います。

 

(3)過剰な要求

Q:帰結主義は、個人に対して過剰な要求をしてしまうのではないか? 例えば、1000円で貧困国の子どもの命を10人救うことができるならば、あなたが自分のお小遣いで好きなものを買うときに、貧困国の子供を救うためにチャリティーを行わなければならないのではないか?

A:帰結主義の原則からすれば、当然私のお小遣いを貧困国の子ども10人を救うためにチャリティーを行うべきであるとします。ただし、これは規則功利主義のように、規則を遵守するなかであれば、自己の選好に委ねるというような反論をすることができます。

 

 

 

 3.2 厚生主義

 

(1)快楽だけが価値があるのか

Q:功利主義は、快楽(効用)のみを重視しており、権利や自由などを軽視しているのではないか?

A:功利主義は、確かに快楽(効用)を最も重視していますが、これが権利や自由を軽視しているとは限りません。功利主義は、権利や自由自体に直接的に価値を認めませんが、権利や自由が快楽(効用)に寄与する限りにおいては当然それらにも価値を認めます。つまり、権利や自由自体に価値があり、それを目的とするのではなくて、あくまでも幸福を最大化させるための手段として権利や自由を肯定します。

 

(2)効用は測定可能か

Q:効用を数値化することは当然不可能ですよね?

A:当初ベンサムは、快楽をリスト化し厳密に数値化できると考えていたようですが、結局厳密に数値化することは不可能であることは多くの功利主義者の間でも了解が得られる部分であると思います。ただし、効用を数値化できないからといって測定できないかと言われればそうではありません。これは効用の基数性(one、two、three…)と序数性(first、second、third…)の問題ですが、特に選好功利主義については効用の序数性があれば問題ありません。複数の選択肢の中で順序さえわかれば、その選択肢のどれを選ぶべきかが分かるというわけです。

 

(3)効用の個人間比較

Q:効用が数値化できないのであれば、効用を個人間で比較することは不可能ではないか?

A:(2)でも述べたとおり、効用の数値化は不可能であると思います。効用の個人間比較については、効用の基数性がない以上、不可能です。しかし、そもそも功利主義は効用の個人間比較についてはあまり問題にはなりません。それは功利主義が総和主義、すなわち社会全体の幸福の総量を最大化させることが目的であるからです。

 

 

 3.3 総和主義

(1)誰の効用か?

Q:社会全体の幸福(効用)を集計するにあたって、どの範囲まで功利計算をするべきなのか?

A:ある行為をするときにその利害関係となる範囲と考えるのが妥当ではないでしょうか。当初功利主義は社会全体というようなある共同体内における幸福を最大化させることを目的としてきたと考えられますが、そこには共同体に含まれない他者の存在を無視しているとも捉えられます。例えば、外国人や胎児、動物など様々な主体が存在する中である共同体の中でのみ功利計算をするべきであると考えるのは難しいのではないでしょうか?

 

(2)分配に関する無関心

Q:総和主義は、社会全体の効用の総和を重視するので、分配について無関心なのではないか?

A:総和主義は、社会全体の効用の総和について重視することを前提としているが、分配について無関心ではありません。特に、功利主義は多数者の専制や平等に無関心であるという批判もありますが、同様に功利主義は、個々の効用についても無関心ではありません。効用について、ミクロ経済学厚生経済学で重要な原則として、限界効用逓減の法則があります。これは、「モノを1つ追加したときに得られる効用は、追加すればするほど小さくなっていく」ということです。例えば、最初のビールはとても美味しいと感じますが、5杯目のビールは(最初より)あまり美味しいと感じないということです。誰か一人に多くの財やモノを集中するよりも多くの人に分配したほうが社会全体の効用は上がるのだから分配すべきだというような結論を導くことは可能です。 

 

さて、功利主義の概観は以上になります。功利主義は現代においても有力な立場の一つですので、覚えておくようにしましょう。

次回は、自由についてリバタリアニズムなどの思想を見ていきたいと思います。

ではまた次回お会いしましょう。

 

 

4.参考文献

カタジナ・デ・ラザリ=ラデク、ピーターシンガー「功利主義とは何か」、2018、岩波書店

児玉聡「功利主義入門」、2012、ちくま新書

ジェームズレイチェルズ「現実を見つめる道徳哲学」、2003、晃洋書房

J.S.ミル「自由論」、2020、岩波文庫

品川哲彦「倫理学入門」、2020、中公新書

関嘉彦編「世界の名著49 ベンサム・J.S.ミル」、1979、中央公論社

瀧川裕英、宇佐美誠、大屋雄裕法哲学」、2014、有斐閣

ベッカリーア「犯罪と刑罰」、1938、岩波文庫

 

 

法哲学(1)第1講 法哲学とは何か

【目次】

0.イントロダクション

1.哲学とは何か

 1.1 哲学とは何か

  1.1.1 呪術的・神話的思考から哲学への転換
  1.1.2 哲学の語源
  1.1.3 相対主義から絶対主義へ

 1.2 法哲学とは何か

  1.2.1 法とは何か
  1.2.2 法哲学とは何か
  1.2.3 哲学をするということ

2.参考文献

 

 

 

0.イントロダクション

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 本講義(ブログ)をご覧いただきまして大変ありがとうございます。今回は、「法哲学」という学問分野について全15回にわたって解説を試みようと思います。本講義(ブログ)の授業計画、授業目的、成績評価等につきましては下記のシラバス をご覧いただきますようお願いいたします。

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 シラバス の授業計画について、前半(第2講〜第6講)に「法とはどうあるべきか」という法価値論(正義論)を取り扱います。法の目指す価値とは何かについて、特に功利主義リベラリズムリバタリアニズムコミュニタリアニズムを中心に取り扱いと思います。また後半(第7講〜12講)では、「法とは何か」という法概念論について取り扱います。法の性格について、特に法と道徳の関係、自然法論(ラートブルフ、フラー)、法実証主義(H.L.Aハート、ケルゼン)、解釈としての法(R.ドゥオーキン)を取り扱います。また現代における法哲学として、動物の権利論、反出生主義、法とジェンダー論、生命倫理安楽死尊厳死、エンハンスメント)、世代間正義、気候正義、世界正義論、AIと法、法デザイン論の中からいくつかの論点を取り上げたいと思います。

 それらの講義を通して、法哲学の基本的理論、概念、思考を理解し、法的思考力を滋養することを目的とします。

 本講義(ブログ)の対象としては、法学・哲学・倫理学を学びたい学生や社会人、高校倫理の延長としてより深く理解したい学生、仕事における哲学的思考を身につけたい社会人等を対象としています。法学、哲学、倫理学についてすでに基本的理解があることは前提とせず、未修者においても理解するよう努めますが、各自わからない点等あれば、予習や復習において質問や調べることによって解決するよう求めます。

 本講義(ブログ)の理解度(達成度)の評価としてレポートを課しますが、余裕のある人だけで十分です。ぜひ余裕があれば挑戦してみてください。

 本講義(ブログ)では、教科書を指定しません。各講義において参考文献、参考書を提示するのでより理解を深めたい人は図書館や書店等にて閲覧、購入されることをお勧めします。

 それでは全15回の長期連載となる予定ですが、どうぞ最後までお付き合いくださいますようお願いいたします。

 

1.法哲学とは何か

1.1 哲学とは何か

1.1.1 呪術的・神話的思考から哲学への転換

 大昔(紀元前6世紀以前)、世界は神話によって形づけられていました。科学がない世界では、説明できない自然現象を神話によって説明していました。たとえば、「カミナリはなぜ起きるの?」という疑問に、人々は「神さまが怒っているからだ」とか「神さまがトンカチで山をたたいているからだ」といった「神さまが〜」というような説明をして、それが神話になり伝承されてきました。

 哲学の誕生は古代ギリシアが起源だと考える人が多いですが、実際には3つの地域で同時多発的に起こります。1つめは古代ギリシアタレスに始まる自然哲学であり、2つめは中国の孔子老子をはじめとする諸子百家が、3つめはインドのウパニシャッド哲学やブッダやマーハーヴィーラらの六師外道らによります。なぜこの頃にこれらの地域において思考の転換が訪れたのか。それはおそらく「ポリス」などの都市国家が互いに接触しあったからです。あるポリスで信じられてきた神話が、違うポリスではまた違った神話を持っていることを確認し、いままで信じてきた神話を疑い始めたのが哲学の誕生の契機だと考えます。それを支えたのは、奴隷制度によって市民に閑暇(スコレー)が生まれ、市民同士で討論や学問をする余裕が出てきたからです。

 

1.1.2 哲学の語源

 今日における「哲学」は西周(にしあまね:1829ー1897)がphilosophyを翻訳したものですが、そもそもphilosophyとは「愛」を意味する「フィロス(φίλος)」の動詞形である「フィレイン(φιλεῖν)」と、「知」を意味する「ソフィア(σοφία))」が結びついた「フィロソフィア(φιλοσοφία)」が語源である。哲学とは知を愛するという意味が込められているのは、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

 

1.1.3 相対主義から絶対主義へ

 相対主義とは、「真理や正しさや価値というものは、それ自体で存在する絶対的なものではなく、人によって違ったり、文化によって違ったり、国家によって違ったりといったような相対的に変化する」というような考え方です。古代ギリシアにおいては、「人間は万物の尺度である」という言葉で有名なプロタゴラス(Protagoras:前500年頃〜前430年頃)に代表されるソフィストらが相対主義を弁論術の一つとして活躍したが、ソクラテス(Sokrates:前470年〜前399年)によって絶対的な真理の探究が始まったといえるでしょう。

 

1.2 法哲学とは何か

1.2.1 法とは何か

 「法とは何か」は法概念論で取り扱うテーマであるが、少しだけここで取り扱いたいと思います。

 法の概念規定をめぐる問題には、(a)「法は規範であるか」、(b)「法はどのような規範か」の2つの領域があります。

 法哲学者の長尾龍一(1938ー)によれば、法の役割として以下の7つを挙げています。

 

(1)本能の秩序

アリストテレスは、「人間は社会的(ポリティコン)なもので、共生(シュゼーン)することを本性とする」といっているが(『ニコマコス倫理学』)、その本性に反する状態になると、「淋しい」とか「退屈だ」とかと感ずる。シューペンハウアーによれば、お互いに愛し合ってもいない人間が相求め合うのは退屈の故である。退屈という害悪は、飢饉と同様に人間を無法状態に駆り立てる危険なもので、どの国家もそれを防止するために国策として「パンとサーカス」を提供する。

 

 誰しも1人では生きていけないように、すべての人間は他者と関わり合いながら生きています。孤独のなかで生きれば、「淋しい」や「退屈」といった感情が湧き上がってくるはずです。マズローの欲求階層説においても、生理的欲求という一次的欲求についで、安全の欲求、所属と愛情の欲求、承認の欲求、さらには自己実現の欲求という二次的欲求(心理的社会的欲求)がつづきます。飢饉やパンというのが生理的欲求であり、退屈やサーカスが二次的欲求を意味していますが、退屈な状態では人は欲求不満(フラストレーション)が起こります。そのとき人間の中でこの欲求不満を回避するために合理的解決(合理的方法によって欲求不満を解決する)、攻撃・近道反応(衝動的・短絡的に欲求を満たそうとすること)、防衛機制(抑圧、合理化、同一視、投射、反動形成、逃避、退行、代償、昇華)が働きます。特に攻撃・近道反応が起これば、無法状態になりかねません。その本能的な情動を規制する(秩序だてる)のが法であるということです。

 

 

(2)習慣の法則

人間も、大部分の行動は、無意識的な習慣によって行なっている。「習慣は第二の天性である」(Costom is second nature.)。自分の習慣が本能でないことは、違った習慣の持ち主に出会うまでは気がつかない。気がついても、「彼らは、あの卑しい行動をとるのだから、人間以下の存在だ」などと思いがちである。……ともあれ、習慣の人間行動に対する規制力は想像以上に大きい。専制支配などというのも、民衆の服従の習慣にその基盤を持っている。……「第二の天性」と化した習慣に従って行動する人間の集団においては、「社会あるところに習慣による共存のルールあり」ということになる。

 

 習慣というものも法と密接的な関係にあります。特に習慣はその共同体の中の道徳を基礎付けるものですが、こういった道徳やそれにもとづく法というものは、その裏側にある習慣をルール化しているものと言えます。

 

(3)黙約

習慣のように無自覚的にではなく、意識的に、しかし言わず語らずのうちに、共存のルールが形成されることがある。

 

 それが意識的な習慣でなくても、個々の関わり合いのなかで黙示的にルール化する場合があります。それを暗黙の了解といったような形で表されることが多いかもしれませんが、例えば、食堂で誰かがテーブルに物を置いているときにそのテーブルは誰の占有でもないと考える人は少ないと思います。つまり、物が置いてあるのだからここには誰かが座るのだろうと考えるはずです。それが個別具体的にその人だけの行動であれば、共同体内においてルール化することはないかもしれませんが、今回の場合のように自分もテーブルに物を置いたときに他人が横取りしないように、自分も他人から横取りしないように思うというこの黙示的な了解が、共同体内で共有されれば、それは法となるということです。

 

(4)技術的規範

世間の人々がすべて善意の人々であったとしても、うまくルールを作っておかないと衝突が起こる。ラートブルフはいう。

〔衝突防止のために方向を指示するような〕規範は、正義の義務を熟知し、それに完全に従うような完全無欠な人々の共同体においても必要である。それ故、法は人間の罪性に対するやむをえざる対策にすぎず、人類が罪から解放されて道徳的存在になった暁には法は消滅するだろうという主張は誤っている。「天使の軍勢」(die himmliche Heerscharenn)にも軍律は必要だろう。

 

 全員が善人であれば、ルールは必要ないかといえば、そうではありません。方向を指示するルールがなければ、人がどこかに集まるときに入り口と出口が別々になっていなければ、人は衝突してしまいまうのと同じように、共同体の中で「正しいことと正しいこと衝突」が起こり得るからです。

 

(5)決断

人間の認識能力は、……特に未来への認識はほとんど閉ざされている。全くかけの要素を持たない行動は存在しない。したがって、善意の人々の社会に、技術規範を定立しようとする場合にも、対立が不可避的に生ずる。……また、人々がすべて、正義のために身を捨てて顧みないような人格であるとしても、「正義とは何か」、少なくとも個々の具体的事例に際しての正義が何かについては、簡単に意見は一致しない。そこから、「正義と邪悪の対立」ではなく、「正義と正義の対立」が生ずる。……人間は時間の中に生きているから、何事にもタイム・リミットがあり、何らかの賭けをするように迫られている。……多数決とか、判決の既判力とかという概念は、法の決断的性格を物語っている。ここでは「社会あるところ法あり」とは「社会あるところ決断あり」ということである。

 

 未来のことについて、私たちは予測はできても知りようがありません。私たちがどのような社会をつくるかについて、それが正しいか正しくないかは、現在においては知りようがないと思います。そういう意味で、すべての行動は賭けであるということです。そうなれば、何が正しい選択かを簡単に一致させることは困難であると言えます。どちらもある程度の妥当性のある意見同士がぶつかり合えば、正義と正義の対立が必ず生じるからです。しかし、その板挟みの中で政治や司法は「決断」に迫られます。つまり、法とは多くの正しいと思われる意見の中からただ一つを共同体(構成員)の正義として選択の決断をした物であると言えます。

 

(6)組織規律

自発的な集団(voluntary associations)において、規律違反の最大の制裁は除名である(カトリック教会法においては「破門」)。伝統的中国の「礼」への違反に対する制裁は「恥」であり、最大の制裁は「君子」の世界からの追放であった。

 

 すべての国家において、また多くの組織について、法が定まっています。そしてそれが構成員すべてに守られるように励行されています。

 

(7)強制規範

法の「強制説」の論者によると、法は物理的強制力行使の正当性の条件を定める規範である。……ただ、国家は、軍事力と警察呂を背景として、その規範を物理的に強制しうるところに、独自性がある。その強制力発動条件を定めるのが法だというのである。国家成立以前の原始社会においても、物理力行使の正当性の基準について諸部族間を実行的に支配する規範が成立するならば、そこには法がある。国際社会にも、国家の軍事力行使の正当性を判定する規範があるとき、国際法は法であるという。

 

 法を破った者に対して制裁がなければ、法としての機能は果たさず、国家は無法状態に陥る。そうならないために、法は強制力をもっています。強制力とは、「甲は乙に〇〇すべし」というような命令の形で、実現されなかった状態を強制的に実現することだったり、「甲は〇〇の刑に処す」というような制裁を実現することをいいます。その背景には、警察力だったり、軍事力といったような物理的に実現させる強力な力がなければなりません。そして強制力の実現を正当化させることが法の役割であるということです。

 

1.2.2 法哲学とは何か

 法哲学(Philosophy of law、Rechtsphilosophie、Philosophie du droit、(あまり一般的ではないが)Legal Philosophyなど)とは「法」という対象を「哲学」という手法を用いて考察する学問領域のことをいう。法律の勉強といえば、多くの人は条文の解釈であったり判例の研究を思い浮かべると思いますが、法哲学は、その法律・法制度・法現象・法文化について、それらの価値、意味、理念を究極的になぜ正しいのか、どのようにあるべきかを探究する学問であるといえます。その取り扱う範囲は、法律が現実の生活一般を対象にするように、法哲学もまた現実の生活一般あるいはその過去・現在・未来について考察するため、法学以外の学問領域にまたがります。十人十色といったように、法哲学も十人十色の考え方になることが多いです。しかし、全く共通点がないわけではありません。

 法哲学の基本的理論・概念・思考を次回から見ていきたいと思います。前半は法価値論すなわち正義論について取り扱います。「正義とは何か?」という問いに対して、多くの哲学者が向き合ってきました。その一角を解説していこうと思います。

 

1.2.3 哲学をするということ

 哲学をするとき、あるいは学ぶときに気をつけなければならないことが1つだけあります。

 哲学をすること、あるいは学ぶことは、他の学問と違い決定的に違う点が一つだけあります。それは、他の学問は新しい知識を学ぶことによって、あるいは探究することを目的としますが、哲学については新しい知識を学ぶということ(概念の名称や理論等は新しい知識と言えなくはないが)はありません。というのも、哲学という学問は、私たちがすでに知っていること、経験していることを別の視点から考察することであるからです。

 哲学をするということは、1つの危険性をはらんでいます。それは、私たちの生活から目新しさを奪ってしまうということです。一度物の捉え方が変わってしまえば、その逆には戻れません。素直に物を捉えられなくなってしまうかもしれません。

 今もっている素直な気持ち、素直な物の捉え方もまたどうか大事になさってください。ではまた次回お会いしましょう。

 

2.参考文献

木田元須田朗編「基礎講座哲学」2016、ちくま学芸文庫

長尾龍一、「法哲学入門」、2007、講談社学術文庫

・長谷川晃、角田猛之編、「ブリッジブック法哲学」、2004、信山社

・長谷部恭男、「法とは何か」、2011、河出ブックス

・飲茶「史上最強の哲学入門」、2010、SUNーMAGAZINE MOOK

 

(なるせるな)

 

 

 

死刑制度の是非について

0.イントロダクション

 今回は「死刑制度の是非について」考えてみたいと思います。

 



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1.死刑制度の現状

 

 1.1 死刑制度の存置・撤廃、死刑執行の状況

 死刑制度の是非を問う前に、死刑制度の運用について見ていこうと思います。我が国では、死刑制度を採用する死刑存置国のひとつですが、アムネスティ・インターナショナルによれば2019年12月末の時点で死刑廃止国が106ヵ国、通常犯罪のみ廃止している国が8ヵ国、事実上廃止している国が28ヵ国、死刑存置国が56ヵ国となっています。現状としては死刑存置国は全体の3割弱の比率となっており、死刑存置国で主な国としては、日本、米国(一部の州は死刑廃止)、中国、台湾、タイ、ベトナム、インド、インドネシアが挙げられます。

 2019年における死刑の執行数についてアムネスティ・インターナショナルによれば、中国の死刑(処刑)を含めないで657件(前年度比▲43件)の執行が確認されています。死刑執行をした国は2018年と同数の20ヵ国であったが、2018年において執行があったアフガニスタン、台湾、タイでは2019年には執行がなかった。2018年執行がなかったが、2019年執行があったのはバーレーンバングラディッシュと2018年に執行を確認できなかったが、2019年に執行が確認されたシリア。

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 1.2 執行方法

 死刑の執行方法について、日本は絞首を採用している。2019年において、執行方法については、斬首、電気椅子、絞首、致死薬注射、銃殺が確認されている。

 

・斬首:サウジアラビア

電気椅子:米国

・絞首:バングラディッシュボツワナ、エジプト、イラン、イラク、日本、パキスタンシンガポール南スーダンスーダン、シリア

・致死薬注射:中国、米国、ベトナム

・銃殺:バーレーンベラルーシ、中国、北朝鮮ソマリア、イエメン

(Amnesty International「2019年の死刑判決と死刑執行」より)

 
 1.3日本の状況

 日本については、2019年の死刑執行数は3件であり、前年度比▲12件と大幅に減少している。ただし、これは2014年〜2017年と比べると同水準。執行された3人は、いずれも殺人罪で有罪判決を受けており、うち1人は再審請求中での死刑執行となった。また、新たな死刑判決は2件でありここ数年では一番少ない。

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 内閣府による令和元年度の世論調査によれば、(1)死刑制度の存廃について、「死刑は廃止すべきである」と答えた者は9.0%(平成26年度同調査比▲0.7%)、「死刑もやむを得ない」と答えた者が80.2%(△0.5%)、「わからない・一概に言えない」と答えた者が10.2%(△0.3%)となっており、8割の国民が死刑是認の立場である。

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 「死刑は廃止すべきである」と答えた者(142人)に対して、その理由を聞いたところ、「裁判に誤りがあったとき、死刑にしてしまうと取り返しがつかない」が50.7%(平成26年度同調査比△4.1%)、「生かしておいて罪の償いをさせたほうがよい」が42.3%(▲1.3%)、「死刑を廃止しても、そのために凶悪犯罪が増加するとは思わない」が32.4%(▲1.4%)、「人を殺すことは刑罰であっても、人道に反し、野蛮である」が31.7%(△0.9%)、「国家であっても人を殺すことは許されない」が31.0%(▲1.3%)、「凶悪な犯罪を犯した者でも、更生の可能性がある」が28.2%(△1.1%)となっている。

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 「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,270人)に対して、その理由を聞いたところ、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」が56.6%(平成26年同調査比△3.2%)、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」が53.6%(△0.7%)、「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」が47.4%(±0)、「死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える」が46.3%(▲0.9%)となっている。また、死刑制度に関して「将来も死刑を廃止しないほうがよいか」、「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」を聞いたところ、前者は54.4%(▲3.1%)、後者が39.9%(▲0.6%)となっている。

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 (2)死刑の犯罪抑止力として、死刑がなくなった場合、凶悪な犯罪が増えるか増えないかを聞いたところ、「増える」と答えた者が58.3%(平成26年度同調査比△0.6%)、「増えない」と答えた者が13.7%(▲0.6%)となっている。

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 (3)終身刑を導入した場合の死刑制度の存廃について、仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば、死刑を廃止するほうがよいか、しないほうがよいかを聞いたところ、「死刑を廃止するほうがよい」と答えた者が35.1%(平成26年度同調査比▲2.6%)、「死刑を廃止しないほうがよい」と答えた者が52.0%(△0.5%)となっている。

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 1.4 死刑制度の近年の動向
 1.4.1  日弁連「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」

 犯罪が起こったとき、我々は、これにどう向き合うべきなのか。そして、どうすれば、人は罪を悔いて、再び罪を犯さないことができるのだろうか。

 ……犯罪により、命が奪われた場合、失われた命は二度と戻ってこない。このような犯罪は決して許されるものではなく、遺族が厳罰を望むのは、ごく自然なことである。

 一方で、生まれながらの犯罪者はおらず、犯罪者となってしまった人の多くは、家庭、経済、教育、地域等における様々な環境や差別が一因となって犯罪に至っている。……。

 このように考えたときに、刑罰制度は、犯罪への応報であることにとどまらず、罪を犯した人を人間として尊重することを基本とし、その人間性の回復と、自由な社会への社会復帰と社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)の達成に資するものでなければならない。……。

(中略)

 ……このように、国際社会の大勢が死刑の廃止を志向しているのは、死刑判決にも誤審のおそれがあり、刑罰としての死刑にその目的である重大犯罪を抑止する効果が乏しく、死刑制度を維持すべき理由のないことが次第に認識されるようになったためである。……。

 しかも、日本では過去4件の死刑確定事件について再審無罪が確定し、2014年3月には袴田事件の再審開始決定がなされ、袴田氏は48年ぶりに釈放された。死刑制度を存続させれば、死刑判決を下すか否かを人が判断する以上、えん罪による処刑を避けることができない。さらに、我が国の刑事違法制度は、長期の身体拘束・取調べや証拠開示等に致命的欠陥を抱え、えん罪の危険性は重大である。えん罪で死刑となり、執行されてしまえば、二度と取り返しがつかない。(以下省略)

(2016年10月7日、日本弁護士連合会「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」による)

 

 1.4.2 冤罪について

(1)死刑冤罪事件

  免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件

(2)死刑判決事件

  帝銀事件三鷹事件、牟礼事件、藤本事件、名張毒ぶどう酒事件、波崎事件、袴田事件、三崎事件、晴山事件、道庁爆破事件

(3)無期懲役再審無罪

  梅田事件、足利事件

(4)無期懲役事件

  丸正事件、狭山事件、日産サニー事件

(5)有期懲役再審無罪

  榎井村事件、弘前大教授夫人殺し事件、徳島ラジオ商殺し事件

(6)有期懲役事件

  白鳥事件

 

2.問題の所在

 

 2.1 刑罰の目的とは何か?

 刑罰の目的といえば、多くの人がハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」に代表される犯罪者への「応報」を挙げるのではないでしょうか。近代刑法理論における刑罰の学派として古典学派と近代学派の対立がありますが、古典学派が応報刑論を刑罰の本質として捉えています。一方で、近代学派は目的形論を刑罰の本質して捉えており、刑罰の目的は法益の保護と社会防衛であるとしています。日本の刑法理論において、刑罰の目的としては応報刑論による一般予防(要するに、犯罪を抑止すること)と目的刑論による特別予防(要するに、再犯を予防をすること)としています。

 死刑である以上、特別予防はありえない。そうであるならば、死刑の根拠は一般予防しかありえない。死刑によって、私たちは犯罪をしないと思うだろうか?

 

 2.2 死刑の不可逆性

 死刑が執行されれば、その生命は二度と戻ることはない。人が人を裁く以上、冤罪の可能性はなくならない。生きていれば刑事補償請求権(憲法40条)により、損失を填補するために、国に対して補償を求めることができる。しかし、死刑が執行されれば補償すらすることはできなくなる。そのため、冤罪は死刑の問題と非常に密接な関係をもつため、冤罪による死刑を考えなければならない。

 

何人も、抑留または拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国に補償を求めることができる。

 

 2.3  残虐刑の禁止

 死刑は、憲法36条が要請する公務員による拷問、残虐刑の禁止に該当するかどうかが問われる。現時点においては、死刑(絞首刑)は残虐な刑罰には該当しないとするのが、最高裁の立場である。しかし、時代と環境によっては人道上の見地から一般に残虐性を有すると認められるものについては、同規定に違反するものと解されている。絞首刑は、残虐な刑といえるだろうか?あるいはより残虐でない死刑の執行方法はあるだろうか?

 

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

 

死刑はまさに究極の刑罰であり、また冷厳ではあるが、刑罰としての死刑そのものが直ちに同条における、いわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ、死刑といえども他の刑罰の場合におけるのと同様に、その執行の方法などがその時代と環境とにおいて、人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、もちろん残虐な刑罰といわねばならぬから、将来、もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの如き残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそまさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである(最高裁大法廷判決昭和23年3月12日)

 

刑罰としての死刑は、その執行方法が人道上の見地から特に残虐性を有すると認められないかぎり,死刑そのものをもって直ちに一般に憲法36条にいわゆる残虐な刑罰に当るといえないという趣旨は、すでに当裁判所大法廷の判示するところである。現在各国において採用している死刑執行方法は,絞殺、斬殺、銃殺、電気殺、瓦斯殺等であるが、これらの比較考量において一長一短の批判があるけれども、現在わが国の採用している絞首方法が他の方法に比して特に人道上残虐であるとする理由は認められない。従って絞首刑は憲法36条に違反するとの論旨は理由がない。(最高裁判所大法廷昭和30年4月6日判決)

 

 2.4 被害者の救済

 多くの犯罪には、被害者が存在する。当然、被害者の救済も刑法ないし刑罰には期待される。しかし、救済とは何か?死刑で被害者は救われるのだろうか?

 被害者の救済について、経済的支援として「犯罪被害者給付制度」があります。また、精神的社会的支援としては「犯罪被害者等基本法」により総合的に定められており、被害者への相談や情報の提供、損害賠償請求への支援、保健、医療、福祉サービスの提供や犯罪被害者等の二次被害防止、安全確保、居住・雇用の安定、刑事に関する手続きへの参加の機会を拡充するための制度の設備等が行われています。

 

 2.5 犯罪の抑止力
 2.5.1 凶悪犯罪の推移

 凶悪犯罪(殺人罪、強盗罪、放火罪、強制性交等罪)の平成22年〜平成30年の推移について以下の通り。

 数値は認知件数で算出。合計のみ折れ線グラフ。縦軸単位(人)出典は犯罪白書より作成。

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 2.5.2 死刑の抑止力について

 米国を例に検討したい。下の画像はWikipediaより。

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 アメリカにおける死刑存置州と死刑廃止州の10万人あたりの暴力犯罪の発生率について2018年7月時点の数値を参考に以下のようになった。

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 死刑廃止州の方が死刑存置州よりも暴力犯罪の発生率が低くなっているものの、あくまでも死刑の抑止力の要素にすぎず、ただちに死刑に犯罪の抑止力があると結論づけることはできないことに注意。

 特に、犯罪の発生については前に掲載の日弁連の宣言の内容にもあるように家庭、経済、教育、地域等様々な要因があることに留意しなければならない。アメリカにおいては北部に死刑廃止州が多く、南部に死刑存置州が多いことが窺える。

 また、2000年以降に死刑廃止したニューヨーク州(2004年)、ニュージャージー州(2007年)、ニューメキシコ州(2009年)、イリノイ州(2011年)、コネチカット州(2012年)、メリーランド州(2013年)、デラウェア州(2017年)、ワシントン州(2018年)、コロラド州(2020年)の殺人の犯罪率について1990年〜2018年までの推移は下のグラフのようになった。

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 少なくとも2000年以降で死刑廃止によって殺人の犯罪率が急激に上昇した州はなかった。

 

3.死刑について私観

 私は、死刑について「反対」の立場を採っています。以下、私観を述べたいと思います。

 

 3.1 死刑は国民を幸福にするだろうか

 厳罰化の問題と重なりますが、厳罰化をすればするほど私たちが被る制裁(苦痛)が増えます。刑罰の目的でも述べたように、一般予防と特別予防のどちらも刑罰を正当化する根拠になります。しかし、死刑には一般予防しかない。1人の命をなくすための苦痛とそれによって得られる効用(あるいは無期懲役終身刑等の死刑をしなかったとき)を比較してもらえれば、死刑をすることが幸福の増大に寄与しないことはわかるのではないでしょうか。

 被害者は、自分の家族を、恋人を、友人を殺した人が生きているのはおかしいと思うのは当然だと思います。ただ、刑法は復讐の法ではないと思います。犯人を死刑にしても、無期懲役にしても失った命は戻ってきません。できることは更生させることだけです。

 

☆ベッカリーア「犯罪と刑罰」より『16 死刑について』から一部抜粋(pp.90−91:岩波文庫

 

 人間が同胞をぎゃく殺する「権利」をいったい誰が与えることができたのか?…法律とは各個人の自由の割前ー各人がゆずることのできる最小の割前の総体以外の何物でもない。それは個々人の意思の総体である総意を表示する。さてしかし、誰が彼の生命をうばう「権利」を他の人々に与えたいなどと思っただろうか? どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由ーあらゆる財産の中で最も大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろう? もしこのようなことが肯定されるのだとすれば、このような原理と、自殺を禁じているいましめとをどうやって調和させるというのか? 人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人にーたとえそれが社会にであったとしてもーゆずり渡すことはできないはずだ。

 

→ベッカリーアは「犯罪と刑罰」の同項目部分において、「国家の通常の状態」以外で1人の国民の死が必要とみなされる場合を2つ挙げている。1つ目は、無政府状態において1人の国民が自由を束縛されていても彼の持つ諸関係と名望とによって、彼の生存が現存の政体を危うくする革命を生む危険がある場合。2つ目は、死刑が他の人々に犯罪を犯させないようにするただひとつのクツワであるということ。また、ベッカリーアは死刑の代替として終身隷役刑を挙げています。

 

Q:法はもともと「復讐」からはじまっているのだから、被害者の「応報感情」を尊重するべきではないか?

A:古代ゲルマン法においては、ジッペ(氏族共同体)における血讐(フェーデ:仇敵関係)も認められていたことを考えれば、刑罰の目的は応報であるという意見も筋が通ります。しかし、被害者に刑罰を与えることが刑法(法律)の目的であるとするのであれば、①死刑だけが被害者の応報感情を満足させる手段ではないこと、②応報感情を優先させた場合、私刑や拷問など直観には反する結論を招くこと(例:被害者による死刑囚への拷問)などの問題点が生じます。

※参考文献:勝田有恒ほか編「概説西洋法制史」ミネルヴァ書房、2004

 

 3.2 死刑によって犯罪を減らすことができるか

 2.5の通り、死刑に犯罪の抑止力はないというのが一般的な見解ではないでしょうか。死刑には、一般予防しかありませんから犯罪抑止力がない場合は、すでに正当化する根拠がありません。

 被害者の救済について、国ができることは犯人の命をもって償わせることではなく、経済的・精神的支援に他なりません。当然その補償が十分かどうかは議論の余地はあると思います。少なくても次の被害者を出さないための行動や政策が求められます。

 

 3.3 冤罪がなくせないなら

 人が人を裁く以上、冤罪がなくせないのは当然の帰結であると思います。そして冤罪をなくすことも死刑賛成派と反対派両方が合意する点だと思います。戦後から4件の死刑判決が再審無罪となっているのを多いとみるか少ないとみるかはそれぞれだと思いますが、冤罪が起こりうる状況であるのは事実であると思います。死刑とその他の自由刑では、冤罪の性質は全く異なってくることも死刑に賛成できない点だと思います。

 冤罪は冤罪の議論であって、死刑の議論と一緒にするべきではないという意見がありますが、私はそうは思いません。確かに、冤罪になってしまった場合、無罪の人に刑罰を与えてしまったことは死刑であっても自由刑であっても取り返しのつかないことであるのは理解できます。2.2の死刑の不可逆性が死刑と自由刑を大きく分ける点になります。すなわち、自由刑の場合であれば経済的・精神的支援をすることで補償することができますが、死刑の場合はその補償すらできなくなってしまいます。

 

Q:現行犯の場合には、冤罪の可能性がないので死刑を維持できるのではないか?

A:現行犯逮捕なら冤罪の可能性がない(限りなく少ない)ため、死刑を採用してもよいのではないかという意見もありますが、私はそうは思いません。現行犯であるから刑罰を重くしてもよいというのは、何を根拠に正当化されるのでしょうか?また、現行犯逮捕してしまったから死刑になってしまったという解釈もできると思います。現場に負担を増やすべきではないと思います。

 

Q:生きていれば、金銭で補償(救済)できるというのは詭弁ではないか?

A:私たち(国)が冤罪を被せられた人にできることは何でしょうか? お金で解決といえば印象が悪いのは当然の感覚だと思いますが、国にできることは金銭で補償することしかできません。冤罪はどの量刑であっても取り返しのつかない意味では大きいも小さいもないのかもしれません。ただ、死刑の冤罪についてはその補償すら奪ってしまうのです。そのような意味で「取り返しがつかない」ということです。

 

 

 

【文系】大学への数学(3)解答

第3講の解答例になります。

 

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出典:筑波大学2018、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:解と係数の関係、相加相乗平均

 

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出典:大阪大学2010、難易度:難、解答時間の目安:30分

ポイント:範囲をしぼること。論証が難しい。十分条件の検証まで行うこと。

 

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出典:一橋大学2007、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:偶奇による場合わけ

 

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出典:北海道大学2012文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:外分の取扱、一直線上にあるときのベクトルの表現

【文系】大学への数学(3)

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第一問

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第二問

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第三問

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第四問

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[訂正]

第四問

(誤)線分AQを1:xに内分する点をS、線分BQを1:xに内分する点をTとする

(正)線分AQを1:xに外分する点をS、線分BQを1:xに外分する点をTとする

 

【文系】大学への数学(2)解答

第2講の解答例になります。

 

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出典:九州大学2015文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:1/6公式の利用、典型問題なので方針立てやすい。

 

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出典:熊本大学2017(医)、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:加法定理の利用

 

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出典:北海道大学2005文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:垂線上に球の中心があること

 

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出典:東北大学2004文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:じゃんけんの典型問題、丁寧に場合わけしよう。

 

 

 

【文系】大学への数学(1)解答

解答例を載せます。出典、難易度、解答時間の目安、ポイントを載せますので自己採点等に役立ててください。

 

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出典:北海道大学2007文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:f(1)≧0、f(−1)≧0の条件、a+2b=kとしたときの直線の意味、典型問題なので方針は見えやすい。

 

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出典:千葉大学2010文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:公式の利用、面積Sで文字を統一したほうがやりやすいです。 

※三角形の面積の公式:S=1/2 × ab × sinC、S=1/2 × r ×(a+b+c)

※正弦定理:S=a/sinA=2R

→S=abc/4R

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出典:神戸大学2007文系、難易度:易、解答時間の目安:10分

ポイント:サービス問題です。基礎問題なので計算ミスないように。

 

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出典:東北大学2014文系、難易度:標準、解答時間の目安:20分

ポイント:(1)の導出、x、yは実数範囲なのでxーy=2nπを忘れずに。